「歴史からは逃げられない」(梶村太一郎氏)


梶村太一郎氏といえば、2月の東京都知事選で南相馬桜井市長が細川候補の選挙カーに乗って応援演説をされた時、ベルリンからブログ「明日うらしま」で日本に向けてこの演説の素晴らしさを訴えておられた方です。その後、ドイツの放送局制作「フクシマの嘘」を紹介されたことでもお馴染みになりました。この梶村氏の「市民の意見」誌142号の記事を紹介したいと思います。

日独伊三国同盟ヒットラームッソリーニと一緒に日本は世界の民主主義国の敵となっていた時代がありました。この辺りは何とか記憶の中にありますが、日本の今の70代、60代の私たち自身の問題として、戦後の教育の中で教わってこなかった歴史があります。

右寄りの方たちは自虐史観と言われますが、私たちは自虐も何も、事実を教わってこなかった。日本の近代史・現代史は、日教組と文部省の対立のなか、教えることを避けた先生方が沢山いました。受験に関係ないと言われたりもして。南京大虐殺朝鮮人慰安婦問題も学校では習わなかった。
日本人が大陸でしたことを日本は教えるべきでした。だから反省を求められても何をどう反省していいのかわからない。挙句の果てに、なかったことにしたり、日本だけじゃなかったとか、恥ずかしい子供の言い訳をするようになり、「反省」そのものを「自虐」だとレッテル貼りして騒ぐ人たちが出てきて、海外でもそれを主張するようにまで・・・。ついつい、最近の嘆かわしい事態に愚痴っぽくなりますが、歴史を知ること学ぶことは大切です。
そこで何かにつけてドイツと比較される日本ですが、ドイツ在住の梶村氏のお話も、ドイツの場合と日本はどう違うのか…という点で考えるヒントになると思います。それでは、書き移してみます:
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歴史からは逃げられない
世界と分かち合える市民の闘いの年を     梶村太一郎



イデオロギーは人を殺す
「今年2014年は、日本にとってとても重い年になりそうだ」とは、誰しもが考えていることだと思います。昨年秋の特定秘密保護法の成立、年末の安倍首相の靖国参拝などで、ついに憲法改悪が具体的日程に上る正念場の年になりそうです。
 こんなときには、本誌の読者なら、「小田実氏が健在なら、何を言い、何をするだろうか」と考えるでしょう。わたしもそうですが、最近、書き物をしていて、ふと小田さんの「イデオロギーは人を殺すよ!」とはき捨てるようにつぶやく声が、そんな時の苦い顔とともに甦るのです。何時どこで、何の関連で出た言葉であったかは定かではなく、おそらくは何度も聴いたと思われます。30年近くも前の、当時の壁に囲まれた西ベルリンでは、だれしも過酷な冷戦の現実に日常的に直面せざるをえなかったのですから、ベルリンのビール談義でこの嘆息ともいえる作家の言葉が、しばしば洩らされても不思議なことではなかったからです。そして今、「このままでは靖国イデオロギーが、またもひとを殺し始めるのでは……」と恐怖するわたしに小田氏のこの声が聴こえるのです。
 小田氏流の表現をすれば、靖国イデオロギーとは「無辜の市民に武器を持たせて人殺しをさせて加害者にし、大砲や爆弾の餌食(えじき)にして被害者となったものを神と讃える」とでもなるでしょうか(ちなみに、「大砲の餌食」という表現は、第一次世界大戦の独仏間の膠着した塹壕戦で定着したことを最近知りました。当時は巨砲時代の始まりで火力が厖大化、塹壕に命中すれば死亡率は50%を超えたのです。そのため英仏など西部戦線の諸国の戦死者は第二次世界大戦時より多かったのです)

 近い将来、平和憲法が改悪され、日本軍が世界中の戦争に動員されるようなことになれば、靖国イデオロギーは新たな戦死者という餌を得て、本当に再生してしまいます。では、そうさせないてための対抗思想とは何でしょうか。


戦争責任からいかに逃げたか 
 
 ふたたび、小田氏の言葉を借りましょう。彼は西ベルリンで知り合ったあるギリシャの詩人の言葉を次のように述べています。
 「彼と、戦争責任からいかに皆逃げたかという話になった。いかにもヨーロッパの小さな国の詩人のシンラツな目で語っていると思うんだけども、要するに日本は広島、長崎の『被爆』を持ち出して加害の責任を逃げてしまった。イタリアは反ファシズム闘争と反ナチスを掲げて土壇場でちょっと抵抗して逃げた。オーストリアはナチ・ドイツの合併をあんなに喜んだにもかかわらず、被害者面して逃げた。東ドイツ社会主義に鞍替えして逃げた。何も逃げる口実がないのは西ドイツや。一番かわいそうやと。鋭いことを言うなと思った」(『われ=われの旅』小田実=玄順恵 64頁)

 第二次大戦でナチスドイツの過酷な占領を体験したギリシャ詩人の視点は、被害者のそれとして的を射ているとわたしも思います。
 日本だけでなく、加害国はなんとかして責任を逃れようとするのが実情です。逃げ口実のない西ドイツにしても、国家元首が全ドイツ国民を代表して戦争責任をはっきりと宣言するまで40年かかっています。1985年5月の敗戦記念日のリヒャード・ワイツゼッカー大統領の演説です。ギリシャの詩人の言葉が出たのは大統領演説の翌年あたりのことです。詩人は「やっと謝ったか」と思っていたのでしょう。
 演説からちょうど28年後の昨年5月に、ウィリー・ブラント生誕100周年を記念する催しで93歳の(ワイツゼッカー)元大統領の回顧の話を聴く機会がありました。それによれば、ワルシャワゲットーで跪(ひざまず)いたことに象徴される1970年のブラント首相の東方外交開始当時は、大統領の属する保守党内では、特にオーデウナイセ国境承認を巡る反発が大きく、そのため演説まで15年かかったとのことです。大統領自身は、71年にブラント首相がノーベル平和賞を受賞したころからその意義を確信していたとのことです。
 10年ほど前、朝日新聞の元大統領とのインタビューに同行した際のことです。知日派の彼は、「島国の日本と違ってドイツは欧州の中でも国境の多い国であり、欧州連合の実現により史上初めてドイツは敵のない国となった」と熱弁を振るわれました。別れ際のわたしとの個人的な話で、「最近も日本を訪れ、中曽根康弘氏と会ったが、彼は超保守のままだね」と厳しい目つきで言葉が漏れました。大統領演説をした85年の8月15日、中曽根首相が初めて総理大臣として靖国を参拝して周辺諸国の反発を招いて以来、元大統領も懸念されているのです。当時このふたりは日独を代表する同年輩の政治家であり、戦争責任に対する姿勢の差が、両国のその後の国際的信頼構築の格差を決定づけたことは、いまやだれも否定できません。昨年末の安倍首相の靖国参拝で、日本はついにアジア諸国だけでなく、歴史認識で世界の孤児になったのです



歴史から逃げ出すことは出来ない
 ところで今年は第一次世界大戦開戦100周年にあたり、ヨーロッパでは、ちょうど5月に行われる欧州議会選挙を含め、その後の夏から秋にかけて多くの催しが行われます。すでに昨年秋ごろから始まった英独仏語の関連出版物は数百冊に達しており、メディアの書評者が悲鳴を上げています。まさに『西欧の没落』(シュペングラー)をもたらしたこの大戦の体験をどう評価するかが、今年の最大のテーマとなります。一昨年の8月、ドイツのショイブレ財務相の話を聴く機会がありました。話題は当時の深刻な欧州金融危機です。わたしが驚いたのは、金融破綻国に対するドイツの厳格な要求の根拠として「第一次世界大戦時の赤字戦時国債の発行が失敗の元だ。ワイマールの破綻もナチスの台頭も原因はそこにある」と喝破する大臣の歴史認識でした。まさに百年の記憶が現在を規定しているのです
 ワイツゼッカーの後継者のガウク大統領も、就任以来歴史の犠牲者を追悼する、巡礼に等しい旅を続けています(詳しくは筆者のブログ「明日うらしま」第220。2014年1月3日の項を参照してください)。彼は開戦の8月3日にはオランド仏大統領と共同で、独仏両軍におびただしい犠牲をもたらしたアルザスの旧戦線で追悼の行事を行います。歴史を正視することからしか和解も友好もあり得ないのです。 

 安倍首相の靖国参拝に関して、中国の王毅外交部長は「中国は日本の侵略で3500万人の死傷者をだした」と訴えました。彼のこの言葉は、優れた知日派外交官の内心の悲鳴のように聴こえます。
 だれしも歴史から逃げることは決してできません。それは殺し殺されることを承諾することになるからです。殺し殺されることをきっぱりと拒否する。これこそが、わたしたちが遵守すべき日本国憲法にある対抗思想なのです世界と分かち合える市民の闘いの年を生きたいと思っています。
(かじむら・たいちろう/在ベルリン・ジャーナリスト)
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(曲り池の北側、鍋田川沿いの側道に咲く椿というより片仮名でカメリアと言った方が似合います。後は我が家に咲く春の花たち)