「東北と中央と歴史」(吉岡忍氏)

「市民の意見」誌(発行:市民の意見30の会・東京)143号からです。
特集3の<「3・11」から3年の「今」>のインタビュー記事を紹介します。
3・11以後、毎月、すでに延部200日以上にわたり、現地取材を重ねられてきた吉岡忍さん。震災体験の風化を危惧する声もある中、現地で何を見、何を思われたか、3年目の3月6日にお話を伺いました。(編集部:安倍、有馬)」とあります。
後半部分を書き移してみます:


<インタビュー>
東日本大震災から3年、今を考える   吉岡 忍


 震災体験の風化? うーん、どうだろう。 誰かが意図を持って忘れさせようとしているとは、私は思わないな。そんなことができるほど、政府与党も東電も知恵はないもの。そのくらいの悪知恵を持ってほしい、そうすれば世の中はもっとうまくいくんじゃないかな(笑)。
 ただ、千年に一度とか、戦後最大と言われるほどの大災害だったから、誰もがその衝撃を受け止めるだけで精一杯、ということはあったと思う。そこから何を汲み取るか、私自身、いまもおくわからない。だから、毎月のように被災地に行く。岩手県から福島県まで歩いていると、日本の歴史や現在を考えるヒントがたくさんある、と私は思っています。


 <自然と漁業  省略>


東北と中央と歴史


 福島第一原発の周辺に足を踏み入れたのは、3・11から2週間後です。20キロラインまで行かないうちに線量計が上がって、振り切れてしまった。80マイクロシーベルトの場所にも、まだ10数人の人たちが暮らしていた。放射線の専門家もいっしょだったので、避難するように勧めながら、私もひやひやしていました。
 大平洋が近いけれども山々が迫ったあのあたりを眺めていると、どうしても中央と東北の関係を考えざるを得なくなる。なんでこんなところに原発があるんだ、ということ



 中央の権力が東北を視野に入れ始めたのは、それこそ武内宿禰ヤマトタケルが東征した神話的王権の時代からですが、収奪・植民地化の最初のきっかけは八世紀なかば、岩手県で見つかった金が東大寺の大仏の鍍金に使われてからですね。この時期、坂上田村麻呂がエミシの頭領アテルイを捕縛し、東北をヤマト朝廷に組み入れた
 
  その後、平泉の藤原三代の栄華があり、それが源頼朝によって討伐されても、その後に義経伝説が広がるなど、それなりに東北には中央権力に服従しない気風が残りますが、何といっても決定的だったのは戊辰戦争でしょう北上山地阿武隈山地を越えて浜に降りると、いまもその言い伝えがさまざまに残っている。
 これが面白いんだ。敗れた墺羽越列藩同盟の面々は榎本武揚らに合流して、函館で戦争に備えるつもりだから、浜に来て漁船を奪い、北海道に向かった。その残兵を追いかけてきた薩長軍も勝利によって、漁師らに酒を持ってこい、魚をよこせ、と乱暴狼藉を働く。浜の人たちは踏んだり蹴ったりですよ。同じ東北といっても、陸と海では歴史の記憶や捉え方がまったくちがう。



とはいえ、いま全国で原発が立地するのは、鹿児島県の川内原発をべつにすれば、どこもこの戊辰戦争で朝敵とされ、敗北したり冷遇されたりしたところばかりですよつまりは、その後の日本近代化の過程で軽視され、過疎化や貧困に追い込まれ、地域存続のためには原発を受け入れるしかなかったという土地柄です。ここには歴史を貫く壮大な差別の構造がある。これを見落とすことはできないな、と私は思っている。
 もっとも、東北のその後の思想的展開はめざましかった薩長藩閥という地域的イデオロギーを凌駕するには、より高い次元の普遍性をめざすしかなかったせいですね。
 それが自由民権運動では、会津白虎隊の生き残りの千葉卓三郎の五日市憲法草案になる。国際主義では、『武士道』の著者で、戦前の国際連盟の事務次長になった新渡戸稲造や、渡米した日本史学者で、ポーツマス条約の時偏狭な日本側をたしなめた朝河貫一の生き方につながっていく。宮澤賢治コスモポリタンな寓話の背景にも、私は当時の東北が置かれた差別的状況への反発があったと思う。もちろんもう一つ、石原莞爾大川周明らの超国家主義も忘れるわけにはいかない。どれもこれも戊辰戦争の東北の運命を背負い、東北から日本を飛び出し、良くも悪くもより普遍的な世界へ向かおうとした試みだった、と私は思っています。
 被災地を歩いていると、そういう歴史がまざまざとよみがえってきて、いまという時代を考える手がかりをたくさん与えてくれます。



原発フジツボ


<前略>


 原発の危うさは、すでに様々に指摘されています。行き場のない使用済み燃料の問題も深刻です。私も原発は即刻廃棄するべきだ、と思っていますが、それにしてもこの話、浜を歩いてきた私には生々しい。膨大なお金と高度な技術を駆使して危険を封じ込めているはずの原発が、自然に、どこの海でも生きているフジツボにあっさりやられてしまうとは……。(原発の人の背丈ほどもある排水管は、地震津波にやられる前に、新たな排水管設置工事をしなければならないほどフジツボで塞がれてしまうのだという:省略部分から)


 私たちは漁業ばかりではなく、自然や海や生き物の営みがあるという簡明な事実まで忘れているのではないか。人間はそのリズムに乗り、それに添ってしか生きられないのに、まるでそんなものはないかのようにふるまい、働き、暮らしている。私自身は全く自然派的生活はしていませんが、それでも繰り返し被災後の浜を歩いていれば、自然と人の関係に自覚的になるし、人間の小ささにも気づきます。
 日本近代の150年間、われわれは大きく、強くなることが良いことだと考え、そのために汗水流してきたでしょ。原発を必要としたのも、その一環だね。東京や西日本はまだその呪縛にとらわれているかもしれない。でもね、何もなくなって更地となった被災地を見ていると、コンパクトで居心地のよい町づくりこそ、いま大切なのではないか、と思う。漁業、自然、歴史、そういうものをもう一度考え直しながら、知恵を結実できればいいな、と私は思っています。
                 (よしおか・しのぶ/ノンフィクション作家)