コスタリカ平和憲法と「有岡城ってどこ?」

ブラジルでのサッカーワールドカップが近づいて、火曜日の朝刊にチョット面白い記事をみつけました。前日の新聞のラジオ・テレビ欄、夜10時台の「プロフェッショナル 仕事の流儀」の内容紹介欄。縦に読むと「日本ガンバレW杯」となっているとネットで話題という記事です。私も新聞を出して調べてみました。なるほど!です。この日(月)は本田圭祐選手の特集でいつもより長い時間だったので番組スタッフが文面を考えたという遊び心だったようです。
◎昨日は、そのサッカー日本代表の強化試合がフロリダのタンパでありました。珍しく午前中からのライブ中継でしたので”ながら見”をすることに。試合は前半、先制点を奪われ、日本は再三のチャンスをものに出来ず、コスタリカの良いとこが目立ちました。夫も気になって後半一緒に見ましたが、「本田のスタミナは石垣島のマラソンの成果かな〜」と、早速前日の特集番組で見たのを絡めています。
さて相手のコスタリカと言えば、たしか「平和憲法」でした。「九条VS平和憲法」の平和対決という見方も面白いと思って調べてみました。試合後半は調子が出て、遠藤の同点、香川の2点目、惜しかった柿谷がついに時間ぎりぎりで3点目。終わってみれば余裕の逆転で良い試合でした。

コスタリカ平和憲法(知恵蔵2014の解説)


 中米コスタリカ1949年に制定された憲法。第12条に「常設的機関としての軍隊は禁止する」とうたい、常備軍を廃止した。自衛のための戦争は認めており、国家防衛のために軍隊を再編できると明記している。
 国家の安全は集団安全保障の米州相互援助条約(リオ条約)に頼る。同国は48年に政争から内戦が起き約2000人が死んだ。勝利したフィゲレス大統領は軍隊の廃止を決意し、「兵士の数だけ教師を」を合言葉に軍事予算をそっくり教育予算に変え教育国家に転換した。 中米紛争が起きた80年代には当時のモンヘ大統領が積極的・永世・非武装中立を宣言した。その路線を引き継いだアリアス大統領は87年、中米地域の内戦を終わらせた功績でノーベル平和賞を受賞した。 ( 伊藤千尋 朝日新聞記者 )


NHK大河ドラマ、「軍師官兵衛」を見ています。
日曜日の第22話では、摂津の荒木村重有岡城を捨てて、官兵衛がやっと土牢から救出されました。人質の松寿丸を信長の命令に背いて密かにかくまった竹中半兵衛は36歳で官兵衛が救出される前に命を終えてしまいます。
先日、高山まで車で行って、それから明田尾(あけたお)山へ登って下山してきた夫が、「高山に右近の母マリアの墓があった」と言うので、はたと気が付きました。高槻の高山右近と思っていましたが、なるほど、高山は高山右近の高山だったのです。箕面の北端に鉢伏山と明田尾山があって東隣は箕面市に侵食するように大阪府の最北の豊能郡(とよの)豊能町(最近、違法土砂流出で話題)の南端があります。箕面の明田尾山の登り口に当る豊能町の高山は明田尾山頂の真東に位置します。この高山が高山右近の生誕地です。というわけで、ここのところ、北摂が舞台となる大河ドラマは見逃せません。
そこで、荒木村重の「難攻不落の有岡城って、どこ?です。調べたら、伊丹だということです。箕面の西隣が池田市池田市の南西隣が伊丹市です。もともと南北朝時代に伊丹氏が築城した伊丹城を、荒木村重が手に入れ、石山本願寺攻めに備えて信長が改修を命じ、総構えの有岡城となったため、信長軍が攻めあぐねる皮肉な結果となります。また有岡城趾は、現在判明している総構えの最古の遺構で、国指定の史跡。
安土の信長のもとへ、長浜の秀吉や、高槻の高山右近、伊丹の荒木村重、播磨(姫路)の黒田官兵衛たちが『関ヶ原』の1600年の20数年前、ここ箕面を駆け抜けていたのですね〜。箕面は奈良の都から中国・九州方面の古代道が通っていますので、国道171号線に平行して走っている西国街道あたりをきっと東に西にと走っていたのでしょう。当時の箕面は、山奥に平安時代に出来たという勝尾寺や滝道の途中に龍安寺があったくらいで、萱野や芝、稲、平尾などの名前に残っている通り、一面草原、萱野村の周りに田畑があったくらいかな〜と当時の様子を想像します。

◎1年とも10か月とも言われる有岡城の土牢生活の中、官兵衛唯一の慰めは明かり窓越しに見える藤の花だったそうです。それで家紋にしています。官兵衛救出に向かった善助たちは商人に成りすまし調査した結果、牢のありかを突き止め、牢番の加藤又左衛門(重徳)とも連絡が取れるようになります。又左衛門は黒田家の家臣の身内が牢の中の官兵衛の世話をしたり、洗濯をするのを見逃したり、官兵衛救出の一翼を担う役割を果たし、落城の折りには官兵衛が子の一人を育てると約束します。約束通り、城を出た官兵衛は二男を養子にして我が子同様に育て黒田姓を名乗らせます。
◎ところで、荒木村重を説得に行ったはずの官兵衛が戻らないのを、毛利方に寝返ったと早とちり? した信長は、官兵衛が1年の囚われの身から救出されたことを知って、人質の松寿丸殺害を命じたことを後悔したそうですが、竹中半兵衛の計らいで生きていることを知り、喜んで感謝したとか。
勿論黒田一族にとっても跡継ぎの松寿丸が生きていたことをどんなに半兵衛に感謝したかったでしょう。戦国時代にこんなエピソードもあったんですね。この松寿丸が後に福岡(筑前)藩の福岡城主になる黒田長政です。
◎生きていればこそ…というエピソードをもう一つ。「さ〜けは呑め〜呑め、呑むな〜らば〜♪」の黒田節と黒田長政の関係です。有岡城に幽閉された官兵衛の救出に向かった三人の家臣の一人、槍の名手母里太兵衛は、後には黒田長政の家臣となり、1596年「主命により福島正則の邸に使いした折、酒宴で酒杯を固辞する太兵衛に、正則は、この大杯で飲むならば褒美は所望次第と強要する。 太兵衛は、この上の辞退は武士の恥辱と、即座に大杯三杯を飲みほして、正則が秘蔵する太閤秀吉下賜の名槍日本号を手に、 悠々として辞去し、黒田武士の真骨頂を発揮した」。黒田節は、この逸話(黒田武士)を歌つた筑前今様(いまよう)博多駅「黒田節像」の銘板より)なんだそうです。官兵衛は1589年には長政に家督相続するも、秀吉が隠居を許さず軍師のままだったようです。先日の番組の最後のエピソード紹介では、松寿丸の命を助けた竹中半兵衛の息子と松寿丸こと黒田長政関ヶ原では徳川方で一緒に戦ったそうです。

◎ドラマでは、半兵衛と官兵衛が軍師として信長方秀吉に仕えたのは、戦乱の世を信長の天下統一で戦を終わらせて平和な世の中にするためだという風に描かれています。毛利ではなく織田、城取り合戦ではなく天下統一というのは、織田信長ルイス・フロイスら宣教師を通じて世界から見た日本の姿(全体像)を知っていたということですね。ドラマでも、ワインを飲み緋色の天鵞絨(ビロード)マントに身を包み地球儀を眺めスッカリ西洋かぶれ?したような信長になっています。二人の軍師、半兵衛と官兵衛はその違いが解って、自ら天下統一を目標としていたということですね。官兵衛のなるべく戦わず、血を流さずに勝とうとするのは兵糧攻め作戦にあらわれていますが、秀吉の考えとも合っていたのかもしれません。知略・謀略で、戦闘を避け家来を減らさずという。血は流さずとも兵糧攻めは、遣られた方には残虐極まりない作戦だったそうですが。

◎ドラマ「軍師官兵衛」で荒木村重を好演している俳優の田中哲司さんが「不運の男」村重を語っておられます。コチラで:(http://www1.nhk.or.jp/kanbe/special/special_35.html) 人間村重を巧みに語っておられますが、撮影で使われている茶器についてのお話も面白いです。
◎ついでに「摂津の国」Wikipediaで調べてみました:

城郭:
大阪城大阪市中央区)、高槻城大阪府高槻市)、芥川城 (大阪府高槻市)、茨木城 (大阪府茨木市)、池田城大阪府池田市)。伊丹城有岡城兵庫県伊丹市)、尼崎城兵庫県尼崎市)、花隈城 (神戸市中央区

地域:

摂津国の範囲は、概ね現在の大阪府淀川以北および大阪市域と尼崎市から神戸市・三田市に至る兵庫県南東部に当る。南に和泉国、東に河内国山城国、北に丹波国、西に播磨国とそれぞれ接する。摂津・河内・和泉三国の国境は、現在の堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治4年1871年)に和泉との国境は堺大小路から大和川に改められ、一部が和泉に編入された。易林本の『節用集』に摂津は「南暖北寒、故五穀先熟、魚鹽繁、大上國也」と記されており、農漁業が盛んで豊かな地勢であったことが分かる。

郡:
島上郡(嶋上郡)…全5郷。現在の高槻市三島郡島本町など。

〇今回は一寸「歴史秘話ヒストリア」風になってしまいました・・・