沖縄へ(南部戦跡を訪ねて)

しばらくブログをお休みしている間に沖縄へ行ってきました。息子が1月に転勤で沖縄勤務になり、5月の連休に数日帰った時、梅雨明け頃二人で沖縄に行くからねと言ってあったのですが、私の体調が思わしくなく、ひょっとしてキャンセルと思った頃もありましたが、何とか行けそうということで、極力他のことはサボって沖縄行に備えることに。19日(木)お昼出発で例のピーチに乗ることになっていて、これも心配の種でしたが、あれ以後事故の話もないし、エ〜〜イ!とばかり、出かけることに。近くに大阪(伊丹)空港があるのですが、蛍池から空港バスで1時間以上かけて関西空港へ。関空第2ターミナルというのは第1からはるか離れた貨物コーナーのはずれにあります。桃色の綺麗な飛行機のところまで大きなキャリーバッグを引っ張りながら、途中、荷物が運ばれるので止められたりしながら飛行機のタラップまで歩いて行って持ち上げてと。格安切符ですので、それなりに乗客も頑張らなければなりません。無駄な(と思える者には)サービスを排して安い料金が魅力ですが、安全面は?という心配が少し伴うのは超低空飛行の事故(未然)があったからですね。

20日(金)、21日(土)とレンタカーで観光しましたがここでは後回しにして、22日の日曜日、息子が久しぶりに運転したいというので運転を任せて、一緒に行きたいと言っていた沖縄南部を目指しました。まず、那覇市のすぐ隣り豊見城市北部にある旧海軍司令部壕へ寄ることに。恒久平和記念塔の近くにあの太田實海軍少将最後の電報の全文が石碑になっていました。去年のTBSドラマで知った「一木一草焦土ト化セン 糧食六日一杯ヲ支フルノミナリト謂ウ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結ばれる電文は「仁愛之碑」と名付けられていました。(蛙ブログ「生きろ」http://d.hatena.ne.jp/cangael/20130811/1376177538
チケットの裏から:「この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で、昭和20年(1945)6月13日午前1時戦い利あらず遂に太田實司令官は辞世の句…(略)…を残し、将兵と共に壮烈な最期を遂げ、太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鍬やつるはしで堀った壕には司令官室・作戦室等があり、当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦跡である」。
一方、陸軍が住民巻き添えの死地を求めて南下するコースをたどるようにして私たちの車も南へ。平和祈念公園に向かう前に「ひめゆりの塔」へ向かいました。塔の前ではテントを張る作業中。資料館の中に入るとひめゆり部隊214人の遺影があり、解説の説明を読んで行くうちに、体験を話している語り部の方がお一人。「今は九条があって私たちは平和に暮しています」と話しておられますが、そういう戦後の日本が今風前の灯です。
第4展示室には、生き残ったひめゆり学徒の証言手記が大きな文字の本に製本(ビニールコーティング)されて展示されていますので、頁を繰りながら読むことができます。学友の死、スパイ容疑をかけられて殺された話や、自決の話、麻酔無しでの手術の話、戦場でのお葬式の話など、それぞれが体験した戦争証言の内容を詳しく知ることができます。


3人とも無口になって次の目的地平和祈念公園に向かいました。木陰に車を止めて中へ。広い空間がいっぱいに広がり、真っ直ぐな道の両横にはずらりと沖縄戦犠牲者の名を刻んだ石屏風が並び、その先は空と海。足元にある三角のモニュメントは「平和の火」:沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と、被爆広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」から分けてもらった火を合わせ、1991年から灯し続けた火を、この施設が完成した1995年6月23日の「慰霊の日」に移したもの。礎(いしじ)には20万人以上の名前が刻まれ、英語や韓国文字もありました。日曜日でもあり、お花を手に家族連れでお参りに来られている方たちが何人も。
先端に立つと沖縄の青い海に白波が立ち、青空には白い夏雲が。私はここまで来たら、敗戦の年に沖縄最後の県知事となって大阪から単身赴任し、陸軍に南部撤退は戦線を拡大し県民を巻き添えにする愚作と訴えた島田叡(あきら)県知事の「島守の塔」にお参りしたいと思いました。島田知事は6月9日、県庁解散を職員に伝え、「生きろ」と命じました。女性職員には「手を挙げて外に出るんだよ、米軍はなにもしないからね。”命どぅ宝”という言葉が沖縄にはあるでしょ」と言ったそうです。鬼畜米英、皇民教育下玉砕主義の当時の人には島田知事のこの言葉は通じなかったようですが、こういう人の存在は本土の人間の慰めです。
炎天下、広い敷地で摩文仁の丘と呼ばれるのがどのあたりなのかわからず、出る頃にやっと「島守の塔」の位置がわかりましたが、次の機会に回すことにしました。

翌日のニュースで23日(月)が沖縄慰霊の日ということを知りました。観光目的の旅行で頭になく、たまたま前日に訪れたことに。ホテルからはモノレールに乗らないでタクシーで行くようにという息子の助言に従ってホテル前でタクシーを。「那覇空港へ。ピーチに乗ります」というと、運転手さんが無線で本部と確認のやり取りを始めました。それがビックリ!!すごい剣幕で話していてその言葉が日本語じゃない! どこの国の言葉!? 運転手さん外国人だったの? と改めて運転手さんの名札を見たら日本人の名前でしたので、これが沖縄弁!?!なるほどサッパリ言ってることが分らず「全日空」という言葉だけ聞き取れたのでピーチの客を空港のどこで下せばよいのか確認の電話だと思いました。それから、日本語に戻ってしばらく話をすることに。
20歳で年上の彼女と5万円持って駆け落ちして親戚のいる大阪で2年、尼崎で5年、ペンキ屋をしていたそうです。そうそう、「大阪から息子のいる沖縄に初めて来た」と夫が言って、「大阪のどこ?」となって、「箕面」と答えたら、「あのお猿さんのいる?」と言われて、「ご存知ですか〜」から始まったのでした。ペンキ塗り修行の話、刷毛目を残さない塗り方や人毛の刷毛が一番良くてそれが高価なんだとか。
そして今日は慰霊の日だということから、作日平和祈念公園へ行ったという話になり、運転手さんが戦争の話をしました。”私らは米軍より日本にやられたようなものだ”という話でした。その時の言葉が思い出せないのですが、私が「本土の?」と言ったら運転手さんは別の言い方をしました。「本土」という言い方は良くないなとその時思ったのを覚えています。運転手さんは「敗戦直後は皆憎んでいたんです。絶対『本土(内地でもなくて何だったか?)の人間』とは結婚しない、させないと避けていた」と言いながら慌てて「今は違いますよ、今は何とも思ってない」と。夫は、「息子はまだ結婚してないので嫁さんは沖縄で探さないとと思ってますよ」なんて言っていましたが。
南部戦跡3か所を巡って安倍首相の記念式典のスピーチを聞くと何ともその白々しさが浮き立ってきます。日本軍は住民の命を守って戦ったのではなくて、あくまで『日本』生き残りの犠牲にしたのです。息子が沖縄の人たちはとても純朴・純粋なところがあって、言ったことをそのまま守って実行しようとする。だから抱え込んでしまって辞めていくことにもなるので、こちらの方でそういうことに気づいてあげないといけないな〜と思ったと言っていました。ひめゆり語り部の方も、教えられたことをそのまま信じた、天皇のため、お国のためと思い込んでいたと話しておられました。勿論沖縄に限ったことではなかったですが。仲井間知事や安倍首相のスピーチでは沖縄振興をはじめ経済的な面だけの話に終わっていますが、「慰霊の日」にそれだけではあまりに情けないと思いました。69年経っても、日本の政治は本当の戦争の反省からはほど遠く、あの戦争の夥しい犠牲者の死を無駄にすることになるでしょう。
(最後の写真と「平和の火」は借り物ですが、あとは私が写した写真です。最初の写真は旧海軍司令部で咲いていた鳳凰木(ホウオウボク)の赤い花。街路樹にもなっていて例年花が緑の葉を覆って木全体が朱赤に染まるほどなのに今年は花つきが悪いとのことでした。)