沖縄へ(県立博物館とおもろまち、そして翌日の南部めぐり)

国際通りからおもろまちの息子のマンションへはタクシーで向かうことに。博物館前を通るとき、運転手さんが首里城に行く前に博物館へ寄った方が良いと。
国際通りまで付き合ってくれた息子とは別れて、ドラッグストアに止めたレンタカーに乗り込むと、ポツンポツンと雨粒が、そのうち大雨になりました。スコールです。
そういえば運転手さんが沖縄は「片雨」(だったか?)…とかいう言葉があって、島の片側だけに雨が降って片側はお天気が良いということが多いんだとか。「それ!」と私。息子も部屋に着いた後で濡れてないでしょう。見事に直ぐ雨は上がって元通りの晴天に。ホテルへ向かう途中にある県立博物館・美術館へ。土曜日なので駐車場が…と言われましたが、空きがありました。
現代的な建物の中へ入ると藁葺の高床式の穀物倉庫の野外展示がありますが、そのまま真っ直ぐ建物の中へ。入り口で70歳以上は博物館(410円)も美術館(310円)も無料でした。申し訳ないくらい。
最初に「海と島に生きる」と題されたパンフレットの常設博物館へ。
上手に展示されています。自然史、考古、美術工芸、歴史の部門に分かれた展示と、総合展示としてて「シマの自然とくらし」「貝塚のムラから琉球王国へ」「王国の繁栄」「薩摩の琉球支配と王国」「王国の衰亡」「沖縄の近代」「戦後の沖縄」と沖縄の歴史がわかる順序になっています。
ところでここでハプニング。「シマの自然と暮らし」を見ているときに夫のケイタイが鳴りました。息子から電話でタクシー会社から連絡が入って私のケイタイを預かっているとのこと。私が落し物、忘れ物をするのは子供のころからのことで、治りません。やっちゃったか〜です。実は途中でショルダーバッグの定位置に携帯電話がないことに気づいていました。でも、ガイドブックや地図を入れたりしている布袋の方にでも入れたかな〜なんて思いながらウロウロしていました。
それで駆け足で一通り見て回ることにして、夫はナビに電話番号を打ち込むからと先に車のところへ。その間私はショップへ寄ることに。「走るヤンバルクイナ」を買って私も車に。沖縄の歴史については初めて知ることがたくさんありました。15世紀に統一された琉球王国は中国大陸の清とも密接な関係があったこと、一方で、日本からは仏教を取り入れたり、立派なかな交じりの公文書が残っていたり。夫はこうやって見てくると尖閣諸島は日本固有の領土という言い方が正しいかわからなくなったとも。タクシー会社は意外と近くにあって、ナビのおかげで10分ほどで迷わず到着、携帯電話も有難く受け取ってきました。私のせいでジックリ見られなかったのは残念ですが、またの機会に、無料だし、ということに。
最初の日に泊まったホテルに到着。シャワーを浴びて一息ついて、7時からは息子が予約してくれているステーキハウスで夕食です。沖縄の方に聞いて一週間も前に予約したからという電話ももらっていました。偶然、息子のマンションのすぐ近くだというのでヘェ〜でした。おしゃれで落ち着いたお店で、一人の女性シェフがつきっきりで鉄板焼きのパフォーマンスをしながら焼きたてをサービスしてくれます。息子と改めて再会を祝してワイングラスを合わせて三人で乾杯しました。沖縄産の黒毛牛もエビも野菜もガーリックライスもおいしくいただきました。9時ごろお店を出て歩いて息子のマンションの部屋へ。
二人が飲み直すというので、母が孫に渡すようにと持たせてくれた柴漬けをおつまみ代わりに刻むことに。これは母のお気に入りの京都のお漬物で、京都から箱入りで取り寄せたもの。小袋が10個も入っていて孫が世話になっている人に配るようにと言われました。息子は、何とかの奥さんみたいやな〜というので、「山之内一豊の奥さんね。昔の人(わが母のこと)の内助の功ってすごいね〜。そこまで気が回らないわ〜」と私。「おばあちゃんにお礼を言うから」というので夫が動画で録画していました。ナスとキュウリとショウガと茗荷を赤紫蘇でつけ込んだもので本当に美味しいです。二人で一袋の半分以上を平らげていました。渡すときには必ず細かく刻んで食べるようにねと伝えたら、ステーキハウスを教えてくれた人にまず渡そうと言っていました。
10時を過ぎて、明日は南部めぐりのドライブだし、そろそろ…と私。仕事の話もタップリ聞いて、親としてなんとなく安心しましたが、仕事を辞めない限り定年まで沖縄だとさらっと言うのを聞いて、二人で覚悟もしました。長男は学生時代から東京へ行ったきり、今では85歳まで働くつもりです。東京の大学に行く前に高校生の弟に両親を頼むという話をしたと随分後になって聞かされました。弟の方は、6,7年働いた兵庫県の葛西の会社から転勤で東京へ。今から10年ほど前、一年の東京暮らしの後電話で夫に「大阪へ帰っていいか?」と電話してきたことがあり、夫は大喜びで「帰ってこい」と。大阪では、今の会社が8年、その前に2年ほどの10年間、実家から通勤。その間、隣の祖母からお説教で結婚を迫られたり、親からお見合いを迫られたり、今から考えるとそれなりのプレッシャーがあって可哀想だったかなとも思いますが、薄給の身に実家は有難かったという面も。
私たち夫婦は、30代の次男との10年ほどの生活を十分楽しみました。私にブログを勧めてくれて、ブログのタイトルを作ってくれたのも息子でした。日曜には、麺類好きの自分が食べたいからとタラコスパティーを作ってくれ、これは絶妙な味で、私のレパートリィーにも加わりました。新しい分野の本や音楽などにも目を開かせてくれ、心斎橋のアメリカ村で自分が企画した古いビルの屋上の食事つきジャズミニコンサートに夫婦で参加したこともありました。二人で、自立した息子の考えや暮らし方に触れて、大きな安心感に包まれてホテルに戻りました。
22日(日)今日はホテルまで歩いてきた息子の運転で南部めぐりです。
南部戦跡3か所は最初の「沖縄へ<1>」で書きました。平和祈念公園の前に琉球ガラス村を訪ねて両親のために可愛いペアの小さなグラスを求めました。いつも夕食に赤ワインを少し飲むことにしているのでそのためのグラスです。
平和祈念公園の後は、ドライブを楽しんで知念岬を目指すことに。途中素晴らしい景観が楽しめる道路があるというので、国道331号線の直進を止めて86号線の方に入りました。ニライ橋、カナイ橋と名付けられた全長1200mの高架橋です。山を蛇行しながら下る途中に海が見え大パノラマが開けて思わず「ワァ〜!!」と声が出ます。「ニライカナイ」というのは「海のかなたの理想郷」という意味でした。
ガンガラーの谷というところで止まったのですが、ガイド付きの予約が必要。数十万年前の鍾乳洞が崩れてできた谷でガジュマルなどに覆われた洞窟があるらしいですが、残念。
ところが、鍾乳洞の入り口で休憩して食事をすることは出来ると書いてありますので、そちらへ行くことに。これはラッキーでした。大きな洞穴が口を開けていて、パラソルと椅子が並べてあります。ここで食事ができました。ポタリポタリ落ちる水滴をパラソルが遮っています。今も発掘が続いているという展示もしてありました。領収書には「CAVE CAFE・ケイブカフェ」とありました。
ここで戴いた昼食はいわゆる”中華ちまき”と鰹節を削ったものにモズクが入っていてお醤油味に熱湯を入れた即席汁の”かちゅー湯”です。広幅で厚目に削った鰹節のダシがよく利いてとてもおいしいので、義母の思い出話になりました。
夫の実家で同居していた時、義母はきちんと四角い箱にカンナが付いた鰹節削りでその都度削った削りたての鰹節でダシを取っていました。2年後、神戸へ出てきたとき、私も真似てあの鰹節削り器を買ってダシをとっていたのに・・・今は手抜きになっています。夫がそろそろまたやってみたらと言いますので、帰ったら考えてみようなんて思いました。
その先の知念岬は青に包まれた岬。
風が強くて帽子を押さえながら先端の展望台へ。

見事な空の青、海の青です。

御嶽(うたき)という斎場が近くにあるようですが、炎天下のこともあって省略。

さて、南部めぐりの後は、息子と別れて、私たちは首里城へ向かい、
そのあとレンタカーをホテルの向いのレンタカー会社に返します。

(お詫び:記憶違いで鍾乳洞の昼食と知念岬の順序が逆になっていましたので訂正しました。最初に読んでくださった方スミマセン)

写真は波に削られた独特の岩が見える知念岬の先。
車窓から見えた沖縄独特の屋根付きお墓。
 
◎沖縄へ(5)(6)は7月3日に。