150年ぶりの復活「大船鉾」

7月24日(木)は49年ぶりに復活した祇園祭の後祭り(あとまつり)でしたが、山鉾巡行の中に150年ぶりに復活した船鉾がありました。
関西テレビ(フジ系列)の6時台、「150年越しの悲願・大船鉾が復活」を途中からでしたが見ました。
若い理事さんたちの復活にかけるひたむきな思いに感動してもらい泣きしそうでした。年のせいですね。

四条町の木村さん、長年、山はなくとも、山を飾ってきた懸想品やご神体を見てきた居祭り(いまつり)が中止になるのを子ども心に残念に淋しく思っていましたが、そのうちお囃子が復活して2000年には木村さんもお囃子に参加しています(1枚目の写真)。こうして居祭りが復活しました。

そして、彼は思います;「ここ(お囃子)をゴールにしていたから、また祭りが消える歴史が繰り返す。今度(消えたら次)はもうない。町内の人口も減っているし」。本体の山鉾の復活を考えます。地元の経済団体が屋形部分を寄贈する話になり、寄付金は4000万円を超えました。
山は出来ても今度はそれを動かす車方(くるまかた)が不在。彼は今北氏に話を持っていきます。押しつけ気味の話に軽い気持ちで応えた今北氏。放下鉾の車方の棟梁に弟子入りして車方の音頭取りの教えを乞います。手とり足とりの親切な教えに最後は実際に合図の手も上げさせてもらいました。あとは本番を待つばかり。
4日がかりで新しい白木で出来た鉾が組み立てられます。

「凱」の字のTシャツが見えますが、これは以前、「凱旋鉾」と呼ばれていた時代があった名残りかと思います。
詳しくは「大船鉾の名称」欄にて。さていよいよ24日の本番です。大船鉾は10基のオオトリ、しんがりを務めます。

150年ぶりと言いますが、150年前って? 「禁門の変」だそうです。詳しくは「歴史」の欄にて。さて、巡行の最も興奮するシーンが「辻回し」です。細く切り裂いた青竹の表面に水をまいて乗せた車輪を滑らせ人力で直角に方向転換します。正面飾りの金の御幣が光っています。


「大船鉾保存会」のブログから「歴史」と「名称」をコピーしました:

大船鉾の歴史


大船鉾の始まりは、四条町では「祇園社記」の記事に基づき、嘉吉元年(1441年)の建立とされています。「康富記」の記述から、応永29年(1422年)にはすでに存在したという説もあります。いずれにしても応仁の乱以前からの古い歴史を持っています。その応仁の乱(1467年)には他の山鉾とともに焼失、23年後の明応9年(1500年)に再興したといわれています。しかし、その年の鬮順の記録には出ていないので、完全な復興は数年後かもしれません。その頃は人形だけを乗せた比較的簡素な「舟」でしたが、江戸時代に入り、次第に装飾が加えられ、囃子も加わって、「船鉾」と呼ばれるようになりました。
天明の大火(1788年)で神功皇后の御神面を残して焼失、文化元年(1804年)には以前にも増して豪華な鉾として再興されました。現在残る懸装品や金幣はこの後に整えられたものです。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変により木部など多くを焼失、以後は休み鉾となります
その後は御神体と懸装品を飾るだけの居祭りを行ってきましたが、平成7年(1995年)にはそれも休止、神事のみとなりました。しかし、平成9年(1997年)には宵山囃子が復活、平成18年(2006年)には飾り席も復活し、いよいよ巡行に向けて鉾の復興を目指すことになりました。

大船鉾の名称


祇園祭には神輿をお迎えする「前(さき)の祭」とお送りする「後(あと)の祭」があり、それぞれに山鉾が巡行します。新町通りの綾小路をはさんで南の船鉾は前の祭に、北の船鉾は後の祭に巡行していました。二つの船鉾は同時に巡行することがなかったので、江戸時代以降はともに「船鉾」と呼ばれていました。区別する場合は祭の日程から「十四日船鉾」と呼ばれていました(当時は旧暦の6月14日に後の祭が行なわれていました)。
居祭りを行うようになってから、町内では「凱旋船鉾」と称するようになりました。これは、前の祭の船鉾神功皇后の出陣を表すのに対し、後の祭の船鉾は戦に勝った凱旋の船を表すものであることによるものです。昭和59年(1984)の伝統工芸博覧会において凱旋船鉾の復元展示(レプリカ)が行なわれましたが、ちょうどそのときに韓国の全斗煥大統領が、第二次大戦以後韓国の大統領としては初めて訪日されることになり、さらに上洛されるということで、国際情勢に鑑み四条町が名称を変更することにしました。その際、「祇園社記」に記述されている「大船」の呼称をもとに、「大船鉾」と称することとしました。 町内には前の祭の船鉾より大きかったという伝承もありますが、同時に巡行したことがありませんので、真偽の程は不明です。  (写真は讀賣新聞夕刊一面より⇒)

追記:
◎そういえば、私が山鉾巡行を初めて、それもその一回きりですが、見たのは今から10年?ほど前、カナダのSさんが一時帰国して大阪芸大の講師をしていたころのことです。
アルバムがあったはずと探したら出てきました。2000年(平成12年)でした。烏丸通で待ち受けて河原町まで歩いたようです。辻回しを見たのが河原町でした。写真も何枚か貼ってみます。
彼女は大学も京都市芸大でしたし、お母さんが京都出身であの頃同志社女子大を出た方でした。根っからの京都っ子で、大阪の南にある大学に通うのに長岡天神に住むような人。祇園さんには血が騒ぐ人でした。それで、私を誘ってくださって、今は山口にいるWさんと二人で連れて行ってもらいました。
祇園祭は本当にカンカン照りの炎天下で行われます。沿道にはパイプ椅子が並べてあってロープが張られています。団扇をもらってそれをかざして日除けにするくらい。待つ間がワクワク感を弥増します。辺りがざわついて鉾が近づいてくるのが分ります。それはもう、伊福部さんのゴジラの音楽です。あちらは恐怖感ですから、おどろおどろしたのを引いて千何百年のお祭りのワクワク感を足したような音楽です。

遠くからやってきた屋台が目の前を通るときの驚き、コンチキチンが目の前です。美しい緞通や仕掛けのオオトカゲじゃなくてオオ蟷螂(カマキリ)まで。美しかったり華やかだったり…興奮の連続です。最後に市役所前で辻回しを見ました。これはもう大見世物です。高さ十数メートルの工芸品のような屋台に人を乗せたまま、掛け声もろともグイッと力任せに90度曲げるわけですから。綱の引き手と車方棟梁の気合いが合わないといけませんしね、そこで掛け声がかかります。「ヨーイ、ヨーイ、エーンヤラヤー」という掛け声は150年ぶりの「大船鉾」の掛け声です。「大船鉾」といえば、14年前のアルバムの中に船鉾の写真がありました。この時は船鉾はこれ一基。今回、四条町の船鉾が復活!です。
この時は、観終わって3人で近くのホテルへ入って食事して、そして帰りに寄ったのが本能寺でした。「敵は本能寺!」と明智光秀がつい最近大河ドラマで叫んだあのお寺です。信長が祇園祭を見る時にも立ち寄ったと先日何かで…さもありなん…直ぐ近くです。こんな街中のお寺だったのかと本当に驚きました。京都の好きなSさんには、このほか、壬生狂言壬生寺にも連れて行っていただきました。京都の好きな友達のお蔭で出不精の私も祇園祭山鉾巡行と、京都在住の友人のお蔭で宵山(2年前)を体験できています。