「兄はスパイじゃない」(北大生『軍機法』冤罪事件)2

逮捕され拘置所に囚われていた宮澤さんに対して取り調べは容赦ありませんでした。スパイ容疑を断固として否認し続けた宮澤さん、逆さづりや竹刀でたたかれるなどの拷問があったと後に担当弁護士が証言している。

家族は宮澤さんと面会することさえ許されなかった。母親のとくさんは今度は秋間さんと一緒に北大に向かい学長に助けを求めた。ここで秋間さんたちは驚くべきことを告げられます。宮澤さんはすでに退学扱いになっていたのです。

秋間さん「母が手をついて学校に助けてくださいと言っておりました。あなたの学校の学生なんだからと助けて頂きたいと。その時の先生の言葉が大変冷たかったと思います。要するに学生ではないというようなことを言われてました。北大とケンカするわけじゃないですけれど、もし、ケンカができるものならケンカしたいくらい、平和な気持ではなかったです。」
その後、家族は逮捕理由がスパイ容疑だと知らされる。秋間さんも学校の行き帰りには黒服の男が後をつけるようになった。市民からは白い目で見られ家族は人目を避けて暮らすようになった。
秋間さん「しょっちゅう引っ越しをするんです。一か所に5〜6か月もいると何となく”スパイの家族”だって言われますから、そう言われる前にどっかへ越すんですの。それは本当に辛いことでしたね。」


逮捕から1年半。無実を訴えていた宮澤さんとレーンさんがともに懲役15年の刑を言い渡された。レーンさんはまもなく捕虜交換船でアメリカへ帰国。

宮澤さんは網走刑務所へ送られた。宮澤さんが入れられたのは畳三畳の独居房だった。
氷点下20℃にまで冷え込む網走。戦争の激化とともに刑務所の食糧事情も厳しくなり宮澤さんの体力も奪われていく。2か月に一度、東京から列車と船を乗り継いで通い続けた母親は弱っていく息子をただ見守ることしかできなかった。宮澤はここで二度の冬を過ごし結核を患った。
終戦後2か月後、GHQの通達により政治犯が釈放。宮澤さんも出所しました。自宅に戻った兄の様子が今でも秋間さんの頭から離れない。
秋間さん「お兄ちゃんが帰ってらして寝てらっしゃるから、ご挨拶してらっしゃいって言われたの母に。離れの8畳間に布団が敷いてあって寝てらしたんだけど、布団がこっぽり盛り上がってなくて、布団をまくったらあばら骨も見えるし、足なんて二本の骨だけ。骨の間に皮、があって、もうほんとにね〜、あれで皮がかぶってなかったら骸骨です。」
この写真が戦後の宮澤弘幸さんが写った唯一の写真です。家族の必死の看病もあって回復の兆しが見えていた宮澤さん、何時か北海道で何があったか洗いざらい本に書くと家族に話していた。しかし、昭和22年2月22日、突然洗面器一杯の血を吐き、帰らぬ人となりました。27歳の若さでした。
兄はスパイじゃない。秋間さんは戦後事件の真相を突き止めるために何度もアメリカと日本を往復してきた。しかし事件にかかわる資料は終戦とともに焼却されたとみられ容易には見つからなかった。
事件から40年余り経った頃、一つの資料が見つかった。大審院(今の最高裁判所)の判決文に秋間さんの知りたかった宮澤さんの詳しい容疑が記録されていた。宮澤さんが漏らしたされる秘密とは「根室を旅行中に知った海軍飛行場の存在」であった。

兄、宮澤弘幸さんのアルバムに手がかりとなる写真が残されていた。昭和16年樺太・千島方面を旅行した時の写真。
判決文によると船旅を終えたその帰り宮澤さんは根室から汽車に乗ったことになっている。偶然乗り合わせていた乗客が話していたことを宮澤さんは覚えていた。「根室町には海軍の飛行場がある」。このことを帰ってからレーンさんに旅行談の一つとして話したことが”軍の秘密を洩らした”罪に問われていた。
しかし、秋間さんたちが調査を進めると意外な事実が分かってきた。「奥に広がるのが海軍飛行場跡地です」。すぐ脇を根室本線が走っていて、列車の窓から誰でも飛行場を見ることができた。列車の乗客には窓の外を見るなという指示はなかったという。調査をした近藤さん「誰でも列車に乗って通る人は知っている状態でさ〜見るなったって見える」。
そして事件が起きる7年前の昭和9年に発行された絵葉書、お土産用として売店で売られていたもの。線路わきに海軍飛行場が描かれている根室に海軍飛行場が広く知られていたことが分かったのです。

学芸員の猪熊樹人さん「知られていること、知っていることが秘密になった。いろんな資料に明記されてありますからね」。
なぜこのことが軍事上の秘密にされてしまったのか。理由は「軍機保護法」にありました。(つづく)