昭和天皇実録(日経)について

9日の日経朝刊には宮内庁が9日に公開した「昭和天皇実録」について一面の左端に「新たな謎」の記事。右の写真は社会面。
1901年の誕生から89年の死去、大喪の礼までの出来事を側近の日誌や公文書、関係者の日記など約3千点の資料をもとに年月日順に記述。分量は全61冊(計約1万2千ページ)に及ぶ」。
9日公開でこれだけの記事ということは新聞社は事前に見ることができたということ?

☆「御告文天皇宮中三殿伊勢神宮などで奏する神道祝詞で、天皇の勅使(使者)が代理で奏するものを御祭文(ごさいもん)という。」「不可解なのは45年7月30日に大分県宇佐神宮、8月1日に埼玉県の氷川神社、同2日に福岡県の香椎宮に勅使を派遣し、「敵国の撃破と神州の禍患(かかん=災い)の祓除(ばつじょ=払い除く)を祈念」したという御祭文。」一方で天皇は6月22日の御前会議で戦争終結検討を指示、7月にはソ連を仲介した和平工作が進められており、終戦不可避の状況だった。専門家は「この時期、天皇終戦を決意していたはずなのに、なぜ戦勝祈願なのか謎」と話している。」
☆「実録にはこのほか、2006年に日本経済新聞が発掘した富田朝彦宮内庁長官の日記・手帳の記録「富田メモが179か所で典拠資料として明記され宮内庁が資料としての信頼性を認めた。」(蛙の疑問:この記載は、日経がスクープした昭和天皇靖国神社参拝をやめた理由がA級戦犯合祀にあるとする「富田メモ」なので、他の新聞でもこういう評価がされているのか?)
◎このほか<戦前・戦中の政策決定について側近に聞き取らせた「拝聴録」にこれまで知られていなかった部分があったこと>や、宮内庁が1990年から実録の編纂を始め、完成までに24年かかったこと、かかった費用は2億円とか。

◎9日の紙面真ん中、見開き2頁にわたり「昭和天皇実録特集」です。
NHK半藤一利氏、報道ステーションは保坂正康氏がそれぞれ意見を求められていました。半藤氏は昭和天皇がヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを体験し戦争より外交による平和を求められたと。保坂氏は、それでも実録の中に昭和16年の開戦に近づくにつれ「已むを得ず」の言葉が表れ、「この本はこの辺のことが割に正直に書かれている」と。
そして終戦の決断です。
・ 史料上、天皇終戦判断について述べた初出は、44年9月26日、木戸幸一内大臣に「武装解除または戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べる。木戸は重光葵外相に「天皇の和平に対するお考えを極秘事項として」伝える。
 45年4月30日戦争続行が不可能だと説明する東郷茂徳外相に「早期終戦を希望する」旨の返答をする。東郷には6月20日にも早期終戦を希望すると話した。
・ 報道ステーションでは、「7月7日、内閣総理大臣鈴木貫太郎をお召しになりソ連邦に対して率直に和平の仲介を依頼し特使に親書を携帯させて派遣しては如何とご提案」になる。しかし、ソ連は8月8日、日本へ宣戦布告。8月9日、満州国侵攻。


・ 8月8日、広島への原爆投下を受け、東郷に「この種の兵器により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時期を逸するのは不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう」言い渡す。
 8月10日、14日の2回の聖断(御前会議)により、ポツダム宣言受諾が正式決定、15日正午の玉音放送で国民に終戦が告げられる。

◎この頁の左端に「編集委員井上亮 」の署名入りのコラムがあります。大きく「天皇の苦悩 随所に推察」とありますが前半のポイントは「実録を通読して改めて気づくのは明治憲法下における国家体制の危うさ。天皇統治権の総攬者として絶対的権力を保持していた。ただし、憲法の規制により「君臨すれども統治せず」の立憲君主の建前をとり、政治・軍事は天皇を輔弼(ほひつ・行為、決定に対し進言し、責任を負う)する臣下によって運営された。天皇に責任は及ばない。それでも天皇の裁可を得なければ何も動かない。責任はないとはいえ、相当な重圧である。まして国の命運がかかった戦争となれば、その負担は計り知れない。・・・・単なるスケジュール表に見える記述でも、天皇の苦悩が推察できる。」
後半は一転、実録の批判です。後半部分:「実録の出来だがほとんどが既成資料の中途半端なつまみ食いで、記述に対して宮内庁が責任を負わないように伝聞調で逃げている。ある意味、黒塗りより姑息だ。ところどころ重要な出来事が抜け落ちているのも不可解だ。たとえば1928年(S3)の張作霖爆殺事件発生、29年の世界恐慌、皇室報道に大きな影響を及ぼした60〜61年の『風流夢譚』・嶋中事件、78年の靖国神社A級戦犯合祀などの記述がない。
 また、天皇が戦争に積極性を示していることを薄めるような部分が随所にみられる。これも一例をあげると、42年12月11日、小倉次侍従に天皇が戦争への不安を語った部分だ。小倉の日記をもとにしているが、原文には「戦争は始めたら徹底してやらねばならぬ」という天皇の強い言葉があるのにそこにはまったく触れていない。全編、隔靴掻痒(かっかそうよう)の印象は免れないが、「天皇というシステム」を理解できる点ではなかなかの読み物である。

◎私が特に注目して読んだのは、
(1)「占領と戦後復興」(1945〜1959・S20~34)の中の「●日本再建」の項目の中にある沖縄に関する記述です。
「19478(S22)年、寺崎英成宮内省御用掛がGHQシーボルト外交局長を訪門。「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである」などの内容を伝える。」
(2)「経済発展と晩年」(1960〜1989・S35~64)の中の「●靖国神社参拝」の項目の中のA級戦犯合祀についです。
 「天皇終戦間もない1945(S20)年11月20日靖国神社を参拝。75年11月21日を最後に戦後計8回参拝した。86年8月15日の全国戦没者追悼式出席の際の心情を次のように詠む(85歳)。「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」。 88年4月28日には、吹上御所富田朝彦宮内庁長官に「靖国神社におけるいわゆるA級」戦犯の合祀(ごうし)、ご参拝について述べられると記述されている。
○コラムの”隔靴掻痒”とはこのことか…と思いました。文書を残さない、公の記録を焼いてしまったりが普通の日本ですので宮内庁の文書がこの程度なのは無理ないのかもしれません。
◎ところで、「明治憲法下の統治権の総攬者、大元帥から日本国憲法で国家の象徴となった天皇」ですが、天皇制が残されたのは「●退位問題」の項目を読むと、マッカーサーの意図でもあったようです。戦後日本の統治(占領)に利用価値ありと判断されたのではと思います。
天皇制の存続については、またこれからの日本人が考えれば良いことだと思いますが、今現在、東京裁判の結果を受け入れず戦後日本の在り方を全否定して戦前の日本に戻りたい人たちが権力の座にいる今現在、最低限、現憲法で定められた天皇の在り方・象徴天皇は守りたいと思います。再び天皇が、開戦や終戦で、軍部や政府との間で悩むなんてことがない時代を守っていかなければ。天皇陛下万歳といって日本の若い青年たちが世界のどこかの国を相手に命を捨てる日が無いようにしたいと思います。ましてや自民党改憲案に書かれている天皇国家元首になるような時代は御免です。