姫路城へ

昨日は、姫路城と書写山円教寺へ車で行ってきました。
私は二度目。一度目は高校時代、昭和の大修理中の遠足でした。この機会を逃せばあと7年ほどお城には入れないと言われていました。
今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」、そのゆかりのお城が丁度平成の大修理中で、来年3月、グランドオープンだとか。
今は天守閣の囲いが取れていますが、内部は見学できません。国宝で、日本で最初に世界遺産に登録されています。

チラシから歴史です:

天正8年(1580年)、羽柴秀吉黒田孝高(官兵衛)の姫路城に入り、天正9年(1581年)、三重の姫路城を築きました。(「普請等油断なく」と命じる文書が残っている)
関ヶ原の戦いの後、姫路に入った徳川家康の娘婿・池田輝政は、慶長6年(1601年)、秀吉の築いた天守などを取り壊し、石垣などは活かして、慶長14年(1609年)、五重の姫路城を完成させた。


見ごたえがあったのは、「西ノ丸百間廊下」と言われる約121間(約240メートル)の廊下とたくさんの櫓。
チラシの写真(←)、上の建物の左端から、ビニール袋に靴を入れて、右端の化粧櫓まで歩きました。

千姫徳川家康の孫ですが、母親は徳川秀忠と結婚した”お江”さんです。その”お江さん”は、織田信長の妹のお市の方浅井長政との間の三人の娘の一人です。
お江の娘の千姫は、一度は豊臣秀頼と7歳で! 結婚して(させられて?)います。そして、
大坂夏の陣(1616年)で落城する大阪城から救出される。元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。しかし、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。」(Wikipediaより)


長男を失うまでの15年ほどは本当に幸せだったようで、百間廊下のチラシにも「姫路城で幸せになった千姫ゾーン」という見出しがつけられています。

廊下には敵襲に備えて狭間があり、格子窓を覗くと下は急な崖になっていて、窓の横や下には、ところどころ蓋を開けると石を落す穴が備えてあります。ところが、先端部の畳敷きの部屋に入ると、格子のない窓で明るく、千姫の暮らしぶりが再現されています。窓からは百間廊下と別の窓からは天守閣も見えます。

ここで外に出ると、木の間越しに天守閣も見えます。
 

途中立札が立っていて、十字を刻んだ鬼瓦の案内です。キリシタンだった官兵衛だからだそうです。

次の行き先は「官兵衛の歴史館」という特別展示のある「りの一渡櫓」です。
城内のたくさんある櫓には「いろは」の順に番号が打たれています。



(↓)入り口には江戸・明治・昭和の鯱(シャチ)瓦の実物が並べてあります。
次の写真は、官兵衛の赤い羅紗のマント。左は十字紋・石餅(こくもち)紋陣羽織。背中に金箔を押した革製の十字。(前には黒田家の家紋である赤い羅紗の石餅が6つあるとチラシに。) 右は南蛮軍旗(キリシタン大名大友氏の居城、臼杵城近郊で発見された)。

三枚目の写真(↑)は、白蓮さん(朝のドラマの蓮子役)の仲間由紀恵さんとの結婚を発表した荒木村重(役の田中哲司さん)の「蔦紋胴具足」とその右の変わった兜は、義経鵯越(ひよどりごえ)から平家陣地に攻め入った一の谷をイメージしたもので、竹中半兵衛所用の写し「一の谷形(なり)兜」。
 
(↑)外に出るとすぐ石棺が置いてあります。これは古代の石棺で古墳時代のもの。石垣の上部に利用されていたようですが、まさにリサイクル。今は展示されています。
少し行くと広場になっていて井戸が。お菊井戸です。高札を読むと、これはまさに番町(播州皿屋敷のお菊さんで、歌舞伎や浄瑠璃になったもの。「一ま〜い、二ま〜い、三ま〜〜い」とお皿を数えるお菊さんです。
そして、行き止まりのこの広場から見た天守閣です(↓)。
もと来た道を出口に向かって戻っていきます。
 
門を出て、北出口へ向かうため左に折れるととすぐ細長い建物が(↓)。昭和の大修理(昭和31〜39年)の時、腐っていることが分かった西の心柱が展示されています。
 
 
クレーンが外されるのは来年の3月。