イチョウの黄葉と「永遠にゼロ」と大津地裁決定


◎いつも貴重な記事を紹介してくださる「shuueiのメモ」さんですが、気になる記事があります。
25日の記事で、「永遠にゼロ」という高校生の読書感想文のような内容です。
難しい漢字で高校の名前が読めず、どういう趣旨で書かれたものかもわかりませんが、一生懸命考えて書いていることは分ります。私は映画でこの「永遠のゼロ」を観ました。原作者の言動には問題がありますが、映画の作品自体は戦争のむなしさを描いていたと思います。
この文章を読んでいると、自分の青い時代を思い出します。

永遠にゼロ
盈進高等学校 二年 川上 明莉



 多くが「感動した」と言う。私はすっきりしない。本のタイトルは『永遠の0』。


 「急降下の直前、三人の搭乗員は私に向かって笑顔で敬礼しました」「彼らの笑顔はすがすがしいものでした。死にいく人間の顔とは思えませんでした」(『永遠の0』/百田尚樹講談社文庫/2009年/85頁)。私は瞬間的にその後のことを想像した。極限の恐怖ってどんな感覚なのだろう。遺体は無残で、海をさまよったのではないか。敵艦にも死者がいただろうに。家族や生き残った仲間はその死をどんな思いで受け止め、どのような葛藤のなかで生活してきたのか・・・だが、この本にはわずかな記述しかない。


 特攻隊員の遺書を三○編ほど読んだ。圧倒的に両親や家族に心を寄せている。「お父さん、お母さん、大変お世話になりました。もう思い残すことはありません」(『知覧特別攻撃隊』/村永薫編/ジャプランブックス/1989年/52頁)。胸がつまり、涙があふれた。ただ、本当にそうなのだろうかと、悩んだ。


 「そんな時代だった」のである。でも、「そんな時代にしてはならない」と私は思う。



 『永遠の0』。「ゼロ」は、「絶対的」という意味であろうと、私は理解する。すなわち、大日本帝国が誇った零戦の「ゼロ」に音を重ね、米軍戦艦に「十死零生」(絶対に死ぬという意味)で体当たりした特攻隊の方々の(絶対的な)無償の愛をテーマにしたのだと思う。


 本はよく売れ、映画もヒットした。私はその状況と、ヘイトスピーチなどの排外的社会現象や集団的自衛権をめぐる政治は無関係ではないと思う。現代社会は戦後六九年にして、凄惨な死を忘れ、単純で美しいものにあこがれているのかもしれない。であるなら、現在はもはや戦後ではなく、すでに「戦前」ではないだろうか。


 太平洋戦争におけるアジア各国への加害も含め、亡くなった尊い命の犠牲の上に、私たちは平和憲法を手にし、現在の日常が成り立っている。

 
「戦争を永久に放棄する」。私はこの永遠の誓いに勇気づけられ、誇りを感じる。しかし今、私たちがこれを放棄するなら、あの尊い命の犠牲は「永遠にゼロ」となろう。
(引用元:http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20141125/1416862984

◎先日、車の中から見たスーパーマーケット「ライフ」イチョウ
昨日、カメラを持って撮りに出かけました。上二枚の写真です。
ライフで買い物をした帰り道、団地の南の黄色いイチョウと赤い桜と緑が美しい。


奥のイチョウはもう、辺り一面、落ち葉が幾層にも重なってフカフカの黄色い絨毯です。

◎日経朝刊の大津地裁決定に関する記事。メモ代わりに写真で。
関西電力の大飯(おおい)と高浜両原発の再稼働差し止めの仮処分申請を却下した27日の大津地裁決定は「両原発の再稼働が差し迫っているとは言えない」との判断を示した。仮処分による暫定的な対応は必要ないとした。
 ただ、地裁決定は両原発の安全性の判断は示しておらず、関電に対しては安全性の根拠を説明していないと指摘。原発の再稼働申請を審査する原子力規制委員会にも十分な審査を求めた。司法が安全性の確保に厳しい姿勢を示した形で、電力会社の説明責任や原子力規制委の審査に影響を与える可能性もありそうだ。」

受け止め方に迷いがあるというか、「最終的な判断を原子力規制委に丸投げした」と批判する一方、再稼働の審査に釘を刺す内容に「実質的な勝訴」という声も上がるなど評価は割れた。弁護団長の井戸弁護士は開口一番「相撲に勝って勝負に負けた」。
◎選挙関連で夕刊からです(→)
なんでわざわざわかりきったことを!?