◎プロローグでNHKのサイトの内容紹介をコピーしましたが、昨年の原爆記念日から半年間の立花隆氏の密着取材が内容です。ちょうど、カナダ人の親友との再会と別れまでが番組の半分くらいになりますので、前半はそこまでの私なりの書き起こしになります。
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「立花隆 次世代へのメッセージ〜わが原点の広島・長崎から〜」
去年の2014年8月6日. 原爆の日。広島平和記念式典。被爆から69年を迎えたこの夏、改めて自分の過去を振り返り原爆の問題を考え始めた人がいる。「知の巨人」と呼ばれるジャーナリスト・評論家の立花隆さんです。
臨死体験や宇宙、そして田名角栄やサル学に至るまで人間の本質を深く掘り下げる100冊以上の著作を世に問うてきた立花さん。しかし、プロの書き手として核兵器の問題と向き合ったことはなかった。
立花さんは現在74歳。7年前にぼうこうがんを患い、その後も糖尿病や心臓病になるなど、病気を抱えている。残りの人生を考えた時、気にかかるのは原爆の問題だった。
実は20歳(1960年)の時、立花さんは被爆者の写真や映画を持ってヨーロッパへ被ばく者の体験を世界に伝える活動に取り組んでいた。あれから半世紀、核兵器の廃絶葉実現していない。しかも、被爆者が次々と亡くなり記憶の継承すらが難しい状況になっている。
今の自分に何が出来るのか、立花さんは次世代の人々にメッセージを残そうと改めて取組を始めた。立花隆. 74歳。被爆の記憶を若者につなごうと活動した半年間の記録です。
長崎。去年2014年8月9日の長崎。立花さんは爆心地から500m先にある浦上天主堂に向かう。AM11:02. 長崎に原爆が投下された時間です。
立花さんは1940年(昭和15年)、長崎市の生まれ。原爆投下の5年前です。二歳の時、父親の都合で引越したため被爆は免れた。しかし、長崎で生まれたことが、その後の人生に大きな影響を与えていく。
爆心地から600mにある旧長崎医科大学正門跡。「ここを見るとズレたっていうのが分るわけ、ほら」 立花さんはこの長崎医科大学の附属病院で生まれた。立花さんが生まれた産婦人科病棟の被爆。ここで500人を超える人々が亡くなった。
立花:だいたい爆心から2キロ以内の人はほとんど死んでいるんです。だから、「あぁ、俺が生まれた処」って思いますからね。そりゃ〜嫌でも意識せざるを得ないです、昔から。
被爆の生々しさを感じてきた立花さん。子どものころから核兵器のない世界を思い描いてきた。
ところが、戦後米ソの冷戦が激化。世界の国々が核兵器開発にしのぎを削る時代がやってくる。
1959年、東京大学に入学した立花さんは核兵器の廃絶に向けて活動を開始。しかし、ここで大きな挫折を味わうことになる。
大学1年生の夏、立花さんは友人と二人で広島の第5回原水禁大会(1959年8月)に乗り込んだ。そして集まった外国人に片っ端から名刺を配る。その目的は外国に招いてもらい映画や写真で被爆の実態を伝えるというものだった。
立花:僕が大学生の時に原水禁運動の一環として世界にそれ(被爆の実態)を知らせたいと思ったのは、他の国の人はほとんど動かない、と言うか、アメリカとか、実際に原爆を持っている国、フランスとかイギリスとか、新しい国が原爆を持つようになる、それは、要するに、被爆の事実問題を知らないからであって、事実問題を知らせれば、あっという間に世界の認識になるだろうと思ったんですね。
広島でのねばり強い活動が実り1960年4月、立花さんはロンドンにやってきた。世界23ヶ国から学生が集まる国際青年核軍縮会議に招かれた。
立花さんは日本から持ってきた被爆者の写真や映画を海外の人々に見せた。
熱戦による火傷でケロイドになった皮膚、そして被爆者には強い放射線を浴びた影響で健康への不安が一生ついてまわるという事実を訴えて回った。
ところが、この頃、イギリス、フランスが次々と新たな核保有国となり、ソ連に対抗するためには核兵器が必要だとする認識が広まっていった。国際会議の後、ヨーロッパ5ヶ国で一般市民に被爆者の写真や映画を見せて回った立花さんはその深刻さが伝わらないという現実に直面した。
立花:原爆の話をしても、話が通じないという面がものすごくあるんです。「原爆そのものは悪くない、戦争を終わらせた、いいものだ」っていうね。だから、いろんな意味のギャップがものすごく大きい。それで、要するに「原爆そのものはいいものだ」みたいなものとか、同じ言葉を使ってもその言葉が意味するところが通じない、という感じがものすごくありました。
意気消沈して帰国することになった立花さん、さらに直面したのは、党派の争いに終始し現実を動かす力を失った日本の原水禁運動だった。
立花さんは一切の運動から距離を置くようになった。その後、ジャーナリストとなり次々と著作を世に送り出してきたが、原爆をテーマにした本を書くことはなかった。学生時代の苦い経験があったからだ。
しかし、74歳となった今、被爆者も高齢となり次々と亡くなる中で、立花さんはもう一度原点に立ち戻り、原爆について考えてみたいと思うようになった。そのため、ぜひ会っておかねばならない人物がいた。核廃絶の運動でヨーロッパに渡った学生時代、原爆について語り合った親友です。
その日、原爆資料館の前で人待ち顔の立花さん:「いま、来たのかな、あれが、そうでしょう」
カナダ人のディミトリ・ルソプロスさんです。
立花:半世紀ぶりですよ。君はあの頃、いつもスーツを着ていたから、今日もそれで来ると思ったよ。
過酷な体験をしたヨーロッパの旅、その時立花さんが持っていた被爆者の写真に強い興味を示してくれたのが当時24歳のディミトリさんだった。
4つ年上のディミトリさんは、立花さんをロンドンの本屋やカフェ、協会などに連れて行き最先端の思想や文化に触れさせます。ディミトリさんの博識ぶりに立花さんは圧倒された。
立花:彼の独特さは幅の広さ、人間の脳の異論側面を全部動員して常に世界をリアルタイムで見ている、
あの〜なんて言うんだろうな〜一種の教師役、世界を回る中で自分がいかに世の中を知らないかわかるわけですね。
帰国して4か月後のこと、ディミトリさんから手紙が届いた。「世界平和を実現しよう」と書かれていたディミトリさんの手紙。しかし、この時、核廃絶の運動から離れつつあった立花さんは素直に共感できなくなっていた。
ディミトリさんが最終的に目指していたのは国家がない世界だった。戦後ヨーロッパでベストセラーとなった「平和の解剖」。「世界の平和が脅かされるのは国家が戦争する権利を持っているからだ」と指摘している。今ある国家を解体し世界共通の政府(universal government organization)を樹立すべきだというのがディミトリさんの考えだった。こうしたディミトリさんに対して立花さんは皮肉に満ちた手紙を返してしまう。
「親愛なる夢想者のディミトリへ。 国家は廃絶されるべきだという君の目的には全面的に賛成する。しかし、目的の正しさだけでは・・・」
この後ディミトリさんから返事が届くことはなかった。
立花:こちらとしては彼を非常に批判するみたいなことを書いて、この後手紙がパタッと切れたことが、僕の心の中にしこりとして残っていた。あそこで書いたことが、すごく悪いことだったのかな、とそういう思いがずっとあったわけです。
半世紀ぶりに連絡を取ってディミトリさんを8月の広島に招待した立花さんは気になっていたあの手紙のことを切り出した。
立花:僕はとても失礼な手紙を書いたよね。あれから君がなぜ返事をくれなかったか考え続けていたんだ。君が怒りに満ちた返事を書いてくるだろうと思っていた。
ディミトリ(D):いや〜違うんだ。違うの?D :解ってほしいのは、僕がカナダもモントリオールに戻った時、大学で反核運動のリーダーになったんだ。それでとにかく忙しかった。カナダはとても広いだろう、国内のあちこちに行かなければならず大変だった。だから、君にだけ返事を書かなかったわけではないんだ。
立花さんはディミトリさんが核廃絶の運動を続けていたことを知らなかった。ディミトリさんは22の大学を束ねる組織のリーダーとなりカナダ全土を駆け巡って核廃絶を訴える活動を展開していた。
世界各地に配備されている核兵器を示す地球儀の前でディミトリさんはカナダに関する意外な話を切り出した。
D:カナダには核兵器が無い。かつてはアメリカの核兵器が持ち込まれていたんだ。典型的なアメリカのやり方だが、核兵器を載せたソ連の爆撃機をカナダの上空で撃ち落とすというんだ。
1963年、アメリカはカナダ全土に核ミサイルを配備した。核兵器を積んだソ連の爆撃機をカナダ上空で撃ち落とすためだ。核ミサイルが爆発すれば強烈な爆風や衝撃波で確実に撃ち落せると考えたのだ。
1964年、ディミトリさんたちはカナダ政府に対する反対運動を展開。スローガンは「ケベック(カナダ)をアメリカの盾にするな!」。ミサイルが上空で爆破したら残骸が落ちて被害に]合うのはカナダの住民だ。ディミトリさんたちの訴えはカナダの世論を動かしていく。核配備に反対する国民は、1961年当初は19%でしたが1966年には44%、倍以上に増えた。
そして1969年、カナダのトルドー首相が核兵器撤去を決断します。1978年、第1回国連軍縮特別委員会。ピエール・トルドー首相は「カナダは核を作ることも保有することも放棄した国です」と演説。6年の歳月を費やして核を撤去させたディミトリさん。カナダの非核化はかけがえのない成功体験です。
D:とても興味深い歴史だよ。沢山のデモや闘いがあった。僕はそのすべての中心にいたんだ。
カナダの反核運動がアメリカの核兵器撤去を実現させていたことを立花さんは知らなかった。衝撃を受けた立花さんは改めて核兵器の廃絶についてディミトリさんとNHK広島放送局のスタジオで話し合うことにした。
立花:振り返ってみるとディミトリさんはずっとMENTOR(指導者・師)でいてくれた。半世紀ぶりにお会いして改めて本当に嬉しかったという事をまず申し上げたいと思います。
D:僕からも言わせてほしい。君がそんなふうに言ってくれるなんて本当に嬉しいよ。僕が君の人生や人格形成にまで大きく影響を与えていたなんて全く知らなかった。心から感動した。
立花:僕は実はカナダがそういう国になってたということを全く知らなかったんですが、その時代の国民の意思ひとつで国策の方向を反対方向に変えるという事、実はやろうと思えば簡単にできると知って実に驚いたわけです。国民の意思さえ一致すれば状況は常に今でも変わるんだということを皆が知るべきだと思うんです。
D:カナダがそうなったのは、若者や学生が非常に積極的に戦った結果なのです。勿論僕らの活動は大きな運動の一部ではあったがね。でも、君が言った通り、これはとっても重要なことなんだ。若者はまず大学という非常に小さな保守的な世界で運動を始めるものなんだけれども、始めてみると突然世界が大きく変わり次々と目の前で展開するようになる。そしてより深い関心を持つようになり、より勉強し互いに刺激し合うようになる。若い人は社会を変えることが出来るんだと感じた途端、そのために力を尽くしたいと思うものなんだ。
それにしても核の抑止力について声高に語る人たちは核の抑止力のお蔭でこれまで核戦争は起きなかったと思っているが、愚かなことだよ。本当の意味で核の抑止力と言うのは1945年8月6日に広島で起きた事、そして9日に長崎で起きた事ではないかと思う。被爆の現実こそが真の抑止力だ。みんなわかってると思うけどね。
立花:要するに、その核の力、現実の力と言うのは、良く、中国語で他の国の力をあれは”張子の虎”だという言い方をしますが、結局核は戦後世界において”張子の虎”としてしか機能しなかったんじゃないか。今後ともそれを力として使う機会が現実社会の世界にあるかと思ったら、それは多分ないんじゃないかという気がする。
D:ベトナム戦争や朝鮮戦争で核兵器を使おうとした軍人たちは結局使えなかった。何故だか分かるかね。おそらく広島と長崎の経験から核兵器を使うとどんなことが起きるのか考えたからではないだろうか。勿論世界中の人々が、今日、僕たちが原爆資料館で見た被爆の現実を詳しく知っているわけだはない。でも広島や長崎で起きたことが恐ろしいものだという事は知っている。さらに核兵器は二度と使ってはいけないという事も良く知っているはずだ。
立花:一番大きなことは、要するに、ピースの実現を一番妨げているのは何かというと、国家のみが"sovereignty(主権・統治権)”の権威を持っていて、国家だけが好きなことを遣る、人を殺すことも、あるいは人を殺させることもできる、こういう世界の構造を変えない限り本当のピース(平和)というのは訪れない。今、広島や長崎で起きていることが、つまり日本の社会において中央が sovereigntyを独占している中で、この二つの市の首長だけは一貫して、場合によっては中央権力に対して異議を唱えることを何度もやってきたわけです。堂々と今政治のやってる方向はオカシイという事をローカルガバメントが堂々と言う。そのパワーを彼らに与えているのは何かと言えば、あの69年前に何十万と言う人が本当にあんな形で残虐な殺され方をした、その事実そのものだと思うんですね。その犠牲者の思いを体の中にしょっているから、あの堂々とした行動がとれるんだと思う。
D:君は今、実に重要な指摘をした。広島や長崎などの都市が政府に対して大きな役割を担うだろうという視点は素晴らしい。僕たちは全く同じことを考えているんだと気づかされた。君に命令だ。もっともっと長生きして価値のある記事や本をたくさん書いてほしい。ベストを尽くすと約束してくれ。
立花:大丈夫、うん。
翌日、立花さんは帰国するディミトリさんを空港まで見送りに行った。広島、長崎で起きた事、その体験こそ核廃絶や平和への原動力になる、立花さんは改めて確信した。(つづく)