スペイン旅行(4.バルセロナー5)ピカソ美術館

バルセロナカタルーニャ地方の州都で、独自の歴史と文化を持つと言われます。ガイド本から:


 イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配していた9世紀、カタルーニャフランク王国の版図に組み入れられ、986年にはバルセロナ伯国として独立を宣言。これが現在のカタルーニャの起源。中世ヨーロッパの影響を受けながら、またイスラムの進んだ文化を取り入れたカタルーニャは、勢力を地中海に拡大し、約4世紀にわたる黄金時代を迎えた。


 しかしその後のスペイン統一により衰退、1714年にはスペイン継承戦争の敗北を機に自治権を失ってしまう再び発展が始まったのは19世紀半ばのこと。カタルーニャルネッサンスと呼ばれるこの時代、モデルニスモという芸術運動が起こりガウディをはじめとする建築家たち(モンタネールもその一人)の作品が街並みに彩を添えた。


 フランコ死後の1977年に念願の自治権を獲得したカタルーニャは、フランコ時代に禁止されていたカタルーニャ語公用語として復活させた。今では街中にカタルーニャ語の標識が掲げられ(スペイン語はその下に表記されていた)、カタルーニャ語で会話を楽しむ人々の姿が見られる。昔から自由で新しい文化を取り入れ、数多くの芸術家を生みだしたバルセロナは、21世紀に入りいっそう、スペインで最も活気のある都市として躍進を続けている。


カタルーニャ音楽堂は11時のツアーで回ったのですが、12時を過ぎて、そのままピカソ美術館へ直行。
途中通ったのがどうも市の中心街。先ほど3人が訪ねたというカテドラル(トップの写真)から、市の歴史博物館の建物や大きな市庁舎の建物も見える。
そこから少し中へ入ると、狭い小路となって、途中、お店のウインドウにメロンを見つけた。フットボール型をしている。これが生ハムに添えられたり、グラナダでは食事の後によく注文した懐かしいマクワウリ味のメロンだ。(写真左がメロン)


この辺りはゴシック地区、
古くはローマ時代に起源をもつ
バルセロナの中心地域。
ピカソ美術館は、市庁舎のあるサン・ジャウマ広場から
通りをいくつか曲って、モンカダ通りにある。
中世の貴族や大商人の邸宅が並ぶ風情のある通り。
その古くて大きな建物の間の谷間のような通りに、
長い行列が出来ている。
1時過ぎ、この行列についてチケットを求める。


ピカソ美術館(MUSEU PICASSO

ピカソ、9歳の時から「青の時代」までの作品が主に展示されており、子ども乍らアカデミックな技法を完全にマスターしてしまったピカソの初期の作品を知ることが出来る、非常にユニークな美術館。
美術館の建物は、旧ベレンゲール・デ・アギラール宮を修復したもの。ピカソの家族が寄贈した多数の油彩、素描を母体として1963年に開館した。

妹をモデルにピカソが15歳の時に描いたラファエロ風の「初聖体拝受」。
その翌年、全国美術展に出品した「科学と慈愛」(『ベッドに横たわる患者の臨終を看取る医者』と私には受け取れました)
これらは私たちが「ピカソ」として知っている作風以前のピカソの作品。
(時間待ちの間にミュージアムショップに寄りました。ここは写真OKだろうと写してきました)

いわゆる『ピカソ』として知っているピカソの作品を見て、私は中学時代の美術の先生を思い出しました。中学時代、ソフトボール部と掛け持ちで美術部にも入って油絵を描いていました。顧問のN先生が、”ピカソみたいな大天才には早く亡くなってもらわないと世界の美術は発展しない”と言っておられました。ピカソってそんなにすごいんだ〜と思ったものでした。当時のピカソは70歳代後半ですから、大天才の名声が確立してからでも大分経っていますね。(以下、Wikipediaを参照しながら…)

パブロ・ピカソ(1881〜1973年91歳没)

1881年、スペインの南部マラガで生まれた。父親は美術教師で、13歳のピカソに絵の道具を譲り自らは描くことをやめる。
1895年(14歳)で、バルセロナに移住、美術学校入学。1897年(16歳)、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画を模写することで絵画の道を求めていった
1899年(18歳)、バルセロナに戻る。バルセロナで若い芸術家(サロン)たちと交わりながら熱心に絵を描く。店のメニューをデザインしたり、アールヌーヴォー調のポスターを描いたりした。

当時のバルセロナは、モデルニスモと呼ばれた前衛的な芸術運動が花開いていた。ガウディやモンタネールは建築家としてこの時代を共に生きていました。時代が天才を生むというのがうなづけます。その後、この芸術運動の陰りと共にピカソの関心もパリに、1900年のパリ発訪問から、4年後の1904年にはパリ移住ピカソ23歳。
☆その後を少し年表で:

1936年(55歳)、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館に就任。
1937年(56歳)、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、ゲルニカ』製作。

スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書をみやげとして持たせたという。

スペイン内戦がフランコファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。

1939年(58歳)、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
1940年(59歳)、ナチス・ドイツ占領下(親独派政権・ヴィシー政権が成立)(監視下にあり)パリを離れることができなくなった。
1941年(60歳)、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944年(63歳)、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
1950年代(69〜70代)、ピカソ過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤプッサン、マネ、クールベドラクロワでも同様の仕事をしている。

ゲルニカ』は惜しいことをしました。マドリッドのソフィア王妃芸術センターがこのゲルニカを所蔵しています。私たちは美術館の前まで行ったのに休館日で見ること叶わずでした。その代り?シエラネバダ山脈の山の中のレストランでトイレを借りた時、ゲルニカが壁にかかっているのを見ました。さて、この美術館では、古典的な作品、ピカソ以前のピカソの作品群も充実していますが、この「ラス・メニーナス」の連作もたくさんありました。プラド美術館でヴェラスケスの実物を見てきましたので、このアレンジ版はとても面白く見ました。こんなに何度も描いているのはどうして?なんでしょう。
元の絵と並べてみます。絵の写真はコチラで:http://remove.jugem.jp/?eid=80


ザァ〜〜と見て、下へ。
夫たち二人は、若いころ、スペイン出張の休日に、
ピカソ美術館へ来たことがあるとのことでしたが、
こんな立派な美術館ではなかったと。
古い邸宅を美術館にしたというのは覚えているが、
こんなに大きくなかったと言っています。
もう20年以上も前のことです。
私たちが並んだチケット売り場、
まだまだ行列が続いているようです。

中庭を見ながら休憩。
ショップで、晩年の鳩(ラ・パロマ)の連作の絵葉書を買い求めました。海の色が南仏のニースかな?
3時頃、外へ。そろそろお腹がすいて、バルでランチです。ここで、スパゲッティを2種頼んだのですが、トマトソースではない方のスパゲッティのお味がトビキリでした。美味しくて、4人で追加を頼みました。
朝から、カタルーニャ音楽堂ピカソ美術館、
ずっしり手ごたえのある最終日のメニューでした。
これからホテルに帰って、夜の外出と帰国準備です。