「日本人でもなくアメリカ人でもなく沖縄人」(比嘉太郎)

◎最近、内田樹氏のブログの更新が途絶えていますが、補って余りあるのがツィート欄です。沖縄で「シールズ琉球」がこの週末、設立予定です。

内田樹さんがリツイート


石川康宏 ‏@walumono0328 · 16時間16時間前
県内学生『シールズ琉球』15日設立 安保法案NO、集会へ」。「『沖縄』ではなく『琉球』とした理由・・『琉球王国時代から薩摩侵攻、沖縄戦、米軍統治など沖縄の歴史を説明するきっかけに・・本島だけでなく離島、奄美など琉球弧一帯の課題に』。 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-246992-storytopic-3.html

▽「琉球新報」8月9日の記事、<県内学生「シールズ琉球」15日設立 安保法案NO、集会へ>(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-246992-storytopic-3.html

◎8月10日(月)、NHKのBS1で放送されたドキュメンタリードラマ「戦場の真心チムグクル〜沖縄を救った日系人」を見ました。ガレッジセールのゴリさん(再現ドラマで比嘉太郎に)が番組宣伝をやっていたので、見ることに。
今年戦後70年、原爆の日前後から戦争についていろんな番組がありましたが、この番組は特異なものでした。日系人という立場から沖縄戦で壕の中に逃げ込んだ沖縄の人たちや日本兵に、丸腰で、沖縄の言葉や日本語で投降を呼びかけた比嘉太郎さんを取り上げたものです。
録画もしていなくて、放送後に訪ねたNHKのサイトでももう番組案内が消えていましたので、覚えている範囲でメモ書きしてみます。再放送があればぜひご覧になってください。(ネットの画像からコピーしたこの写真は、番組でも使われていて、ご本人のお気に入りだったようです)    
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比嘉太郎の両親はハワイ移民、生まれた子供は仕事に差し支えるからと沖縄の島袋の祖父母に預けられる。その後長じて一時ハワイに帰るも日本に留学、早稲田の学生時代に特高につかまり尋問を受け屈辱的な扱いを受けハワイにもどる。そこでもあるきっかけで軍隊に。日系人はヨーロッパ戦線の弾除けとして一番過酷な前線、イタリアはカッシーノの戦いに送り込まれドイツ兵と闘う。そこで比嘉太郎は重傷を負い、帰国。その後、沖縄に。


「ある二世の轍(わだち)」を手に、ゴリさんが比嘉太郎の母校を訪ねる。ガジュマルの木の下で、子供たちを前にして、本を開き、比嘉太郎の小学校時代の先生であった喜納昌盛の言葉を紹介します。「この木は、いろんな艱難辛苦(こういう意味のこと)を乗り越えて、大きくなって、今は木陰を作って人の役に立っている。みんなもこの木のように、たくましく生きて、人の役に立つようになるんだよ」。比嘉太郎はこの恩師の言葉を大切にして覚えていたという。

昭和20年春、米軍の沖縄上陸をまじかに控え、村議会が開かれ、北部へ避難の決議が。ひとり小学校の先生が、避難決議に反対を表明。北部が安全とは限らないし、米軍は民間人に危害を加えないという理由だった。実際、島袋では戦争犠牲者の数が少なかった。避難しないで、米軍の住民収容所に収容されたからであった。ここで、比嘉太郎は恩師喜納昌盛と再会している。沖縄のほかの地域に比べて島袋が平穏であったことが、比嘉太郎が写した写真の女性たちの笑顔でも分かる。

5月、住民たちの逃避行は首里から南部の摩文仁へと。壕に逃げ込んだ住民に比嘉太郎は投降を呼びかけていた。「アメリカ人は野蛮人じゃないから出てきてください!」。壕の入り口に銃を向けるアメリカ兵を制止して、比嘉太郎は武器を持たず懐中電灯を自分の顔と足元に向け乍ら、中へと進む。丸腰が良いと確信していた。沖縄の現地の言葉で語り掛けた。助けられたのは住民だけではなく、日本兵にも武器を持たず投降をすすめた。次女のエルシーさんの話では、12回の内、1回だけ出て来なかったケースがあったらしく、父親はその失敗についてはあまり話すことはなかったという。

8月15日の玉音放送。9月7日、沖縄の戦争は終り、アメリカになった(占領下)。ハワイへ戻った比嘉太郎は戦後も沖縄への支援に奔走。救援物資を届けた。1984年、亡くなった比嘉太郎は戦没者墓地パンチボールではなく、別の墓地の家族のお墓に入っている。日本人でもアメリカ人でもなく沖縄人・ウチナーンチューだからこそできた真心の呼びかけであった。
(番組では比嘉太郎さんゆかりの方たちの証言が沢山ありましたが、端折っています)


●「移民人物伝」から(引用元:http://rca.open.ed.jp/city-2001/emigration/person/e_3h.html


移民人物伝 比嘉太郎(ひが たろう)


 比嘉太郎は、沖縄移民の歴史のなかでもユニークな人物といえます。両親が中城村字島袋(なかぐすくむらあざしまぶくろ)出身の移民一世で太郎がハワイで生まれたことから、沖縄・本土・米国と度々の往復をしたことで実に多彩な人生を体験しました。太郎はこの両国の文化や精神を知る経験から移民を語っているのです。たとえば戦争の語り部・戦災救援運動の推進・出版や映画などを通して移民の真実を深く伝えています。


 両親は1905年(明治38)にハワイに渡りました。太郎は1916年(大正5)に生まれ、二世であるゆえの人生を生きていくことになります。小さいころは、いったん沖縄の祖父母のもとに預けられます。それから、中学を中退して出稼ぎで大阪の紡績工場を最初に職を転々とします。その時、数々の就職体験から沖縄出身者への差別も感じました。やがて、ハワイの両親のもとに戻ります。1937年(昭和12)には電気技術の勉学のため再び来日、1940年(昭和15)にまた、ハワイに帰りました。まさに戦争勃発の前の年でした。


 大平洋戦争が始まると、太郎はアメリカ日系二世部隊として過酷な欧州最前線に送られました。「日系兵は前線でタマよけに使われるのだ」という偏見や差別の噂(うわさ)のもとでの召集でした。また、戦火が沖縄に及ぶと両親の郷里で通訳兵として壕の投降を呼び掛けるなどして恩師(おんし)を始め多数の人命を救いました。戦後も13万人余りの日系人の収容所を訪れ慰問しました。



 太郎は熱血漢と正義感にあふれる人で、戦後の沖縄の戦災復興運動や政治運動にも取組みました。戦争で破壊された沖縄救援の大運動をおこし、同郷人に応援を呼び掛け、多くの救援物資を送ることに努力を惜しみませんでした。


 さらに注目すべきは、1946年(昭和21)日本人だけに許されていなかった帰化権を米国の差別として抗議し、獲得に向けて大きなうねりをつくりあげたことです。当時、1946年の末から1947年(昭和22)の春にかけて米大陸の帰化権獲得期成同盟会は、ハワイの日系人たちの呼び掛けて応援運動を展開していました。このとき、太郎はハワイで発刊された(コロラドタイムス)の編集長でしたが、講演・宣伝・寄付募集などに駆け巡り、帰化権獲得(きかけんかくとく)に向けて奮闘しました。ハワイでの一大運動の展開も功(こう)を奏(そう)し、1952年(昭和27)には日本人の帰化が認められました。


 比嘉太郎ほど、愛郷心に燃えた不屈の開拓精神を貫き、移民の真実を伝えてやまない人はいないでしょう。ウチナーンチュ(沖縄人)の肝心(チムグクル)(暖かいハート)とハワイアンのホスピタリティー(歓待心(かんたいしん))を兼ね備えたハワイ移民二世といえます。

ある2世の轍


1916年(大正5)ハワイ生まれの沖縄系2世トーマス太郎比嘉氏による著作。中城村喜舎場尋常小学校で学んだ帰米2世。ヨーロッパ戦線を経て1945年4月25日に沖縄戦戦災罹災者救済のために第10軍情報部付きとなり、沖縄戦に参戦。同年9月13日に帰布し、沖縄救済運動の牽引者となる。1982年6月30日ハワイ報知社発行。

(上二枚はネットで。下三枚は番組の画面をカメラで撮ったものです)
●参考:「弁護士ドットコム」(5/20)の記事<沖縄は「独立」に向かう? 翁長知事「簡単にはできないが、私たちにも尊厳がある」>(http://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_3133/
◎参考:「移動命令を拒否して」(http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennosyougen/syougen39.htm
これを読むと、喜納氏が避難拒否をしたのは村会議員だったとあります。再現ドラマでは教員の代表のような感じだったと思うのですが、私の記憶違いかもしれません。島袋の当時の様子や避難(移動)拒否して米兵を迎える時、教え子で米軍の通訳だった比嘉太郎との再会、教会建設のことなどが語られています。