「日本のいちばん長い日」と玉音放送原盤公開


◎映画、見てきました。
今のところ言葉にも文字にもできずなので、以下、代わりに:

◎「シネマ・トリビューン」の「映画の面白さと歴史の重要さを議論して欲しい──『日本のいちばん長い日』原田眞人監督インタビュー 」から:

監督:この映画は、鈴木貫太郎阿南惟幾昭和天皇、この3人がどんな連係プレーで聖断まで持っていったのかがメインテーマだから、中途半端な寄り道は出来ませんでした。

──映画を観て、この3人じゃなければ終戦は叶わなかったのかもしれないと思いました。

監督:出来なかったと思いますよ。開戦の時にこのメンツがいなかったから開戦したのだと思います。


この3人は、映画の主人公にふさわしい人物なんです。特に阿南さん。彼自身は“行け行けドンドン”な人だし、次男は戦死していて、兵隊たちは彼が作り上げたモンスターのようなもの。やはり最後まで戦いたいと思いながらも、天皇の聖断もある。映画の主人公に必要なアンビバレントを抱えているんですね。魂の相克の中で、最初から行く道は決まっているけども、危険な道を綱渡りをしている。それは貫太郎さんにも昭和天皇にもあった
(全文はコチラで:http://cinetri.jp/interview/emperorinaugust_harada/

◎「シネマトピックスオンライン」の記事:<映画『日本のいちばん長い日』本木「是非、皇居試写をやりたい!」大ヒット御礼舞台挨拶 (2015/08/14)>から:


ここで、戦後70年、8月15日の終戦記念日。この日から、今の平和な日本が始まったともいえるとのことで、登壇者が自ら考えた直筆の“平和への想いを表す一文字”披露。


役所は「知」という文字書き「色々な国の歴史を知るということ、自分の国のことを知るということ、世界の色々な人を知るということが平和につながることかなと思いこの文字にしました」と答え、「祈」と書いた本木は「昭和天皇を演じさせて頂くにあたり、国を想い世界の平和を心から願っていたというところで、願うというよりかはより慎ましく厳かな感じがし世界に通じる言葉ではないかと思って平和を祈るということを忘れないという意味でもこの文字にさせていただきました」と説明。「人」と書いた松坂は「平和を壊すのもつくるのも守るのも人。これから先平和をつくっていくのも僕たち人。人という字に祈りを込めてこの字を選びました」と答え。「命」と書いた原田監督は「命というのは、映画の中にあるセリフで入れようと思っていたんですけども、義命派の政治家というのは出てきましたけれども、時運の赴くままになって義命派というのは拒絶されてしまいますよね。やはり日本に必要とされていると思うのはこういう義命という言葉だと思うんですけど、それと同時に平和ということを考えると奪われた命だけではなくて奪った命も考えないといけないと思うんですね。そういう意味で命という文字にしました」と答えた。
(全文はコチラで:http://www.cinematopics.com/cinema/c_report/index3.php?number=9425


◎左は日経新聞8月1日の特集記事です。
この日、宮内庁終戦玉音放送の原盤を公開、同時に「聖断」の場・御文庫付属室も50年ぶりに公開された。
(マイクの前に平伏姿で立つ昭和天皇の写真は1946年5月23日のもの。翌24日に放送された第二の玉音放送「食糧問題の重要性に関する御言葉」)

 御文庫付属室は戦後20年の1965年以来、50年ぶりの公開。付属室は吹上御苑・地主山の森林に埋もれたような状態にある。10トン爆弾にも耐える鉄筋コンクリート造りであるため、戦後70年を経た現在でも構造物としての強さは建設当時とほぼ変わっていない。

 宮内庁の山本信一郎次長によると、気温30度ほどの時期でも付属室内は16〜17度くらいでひんやりとしており、湿気が高いという。長年にわたり雨水や泥などが内部に流入し、換気をしていないため内部は結露が発生。このため木製の壁や床が朽ち果て、はがれた木材が散在している。金属製の扉はサビがひどく、トイレなどのタイルは剥落している。照明も壊れており、中は真っ暗。

 「昭和天皇実録」によると、昭和天皇は戦後9年たった54年2月に付属室を撤去できるかどうか側近に尋ねたことがある。しかし、取り壊しに経費がかかりすぎるためそのままになった。

 山本次長によると、天皇陛下は以前に付属室内に入られたことがあり、皇太子さまと秋篠宮さまも今年7月中旬に見学されたという。同次長は「歴史的に意義ある資産なので、基本的には手を加えず管理していく」と話している。(日経WEB)

◎下の表は東京新聞(WEB)8月1日の記事から:

 14日午後11時天皇の御名御璽を押した詔書が発布され、11時25分に陸軍軍装の天皇が録音場所の宮内省内廷庁舎(第二期庁舎)政務室に入る。

 屏風を背にしてスタンドマイクの前に立った天皇詔書を朗読。「今の声は低かったようだからとり直しをしよう」と言い、再度朗読。2度目の炉婚が実際の放送で使われた。

 軍の不穏な動きも察知されていたため、放送局員は玉音盤を持ち帰るのは危険と判断、宮内省に預けることにした

 終戦に反対する陸軍省の将校らがクーデターを策し、15日午前1時に偽の師団長命令により近衛歩兵第2連隊が皇居内を占拠する。将校らは玉音盤を奪取して国民への終戦告知を阻止しようとした。しかし、玉音盤を預かった徳川義寛侍従が内廷庁舎1階の侍従職事務官室に巧妙に隠したため発見できなかった。

 午前4時ごろ反乱部隊は内幸町の放送会館にも乱入し、終戦反対の声明を全国放送させるよう要求するが、放送局側に拒否される。その後、反乱は全面的に鎮圧され、反乱将校らは自決する。
 15日午前7時21分、「かしこくも天皇陛下におかせられましては、本日正午、おん自らご放送あそばされます」との予告放送がなされ、重大放送が玉音放送であることが明らかになる。
  正午時報とともに放送が始まった。主な内容は次の通り。
「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様、ご起立願います」
――君が代
 「これより、つつしみて玉音をお送り申します」
――天皇詔書朗読(4分30秒)
――和田放送員による詔書再朗読
――内閣告諭
――終戦決定の御前会議の模様
――交換外交文書の要旨(日本のポツダム宣言受諾の条件の通告文に対するアメリカの回答文)
――ポツダム宣言受諾に至った経緯
――ポツダム宣言の要旨
――カイロ宣言の要旨
――終戦にのぞんでの国民の心構え
――8月9日から14日までの重要会議の開催経過放送は37分30秒続いた。詔書は英仏語など約20か国語に翻訳して放送された。(日経新聞

●写真と資料は、宮内庁HPhttp://www.kunaicho.go.jp//kunaicho/koho/taisenkankei/index.html)
●「玉音放送原稿と現代語訳」は丁寧なフリガナつきのコチラで:朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/articles/ASH7G3JDXH7GUTIL021.html

玉音放送があった8月15日といえば、私は1歳4か月。勿論覚えているわけではありませんが、母親から聞いたりして、あるいは当時の新聞、雑誌で、「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」の玉音放送であの戦争が終わったと聞いていました。その詔書を最初から最後まで読んだのは今回が初めてでした。それに、その時のラジオ放送で、ポツダム宣言の受諾に至った経緯や内容、カイロ宣言終戦にのぞんでの心構えまで放送されたというのは初めて知りました。映画のシーンでは、だいたい「堪え難きを耐え〜忍び難きを・・・」のあたりでガックリ首を垂れるか、(躍り上がって)喜ぶか…というのが多くて、そんなもんなんだと思っていました。ここまでシッカリ聞いた人たちもいたのでしょうね。

8月15日のこの放送が「敗戦」ではなく、「終戦記念日」と言われる理由は、大変内向きな戦争だったということもありますね。ご聖断を仰がなければ戦争が止められなかった、クーデターでそれを阻止しようというグループまであったということです。戦争勢力と和平?勢力の国内バトル、戦争を止めると天皇に決めてもらわないと決断できなかった日本。そこには戦争相手国とかポツダム宣言の向こうにどれだけの勢力がいて、世界のどういう勢力を相手に戦争をしていたとかは問題外。長年の思想教育で死ぬまで闘うと教え込まれた国民に、宥めるようにして戦争を止めると宣言できたのは天皇しかなかった。特攻なんて手段で戦争を続けることは出来ないという理性的な判断を持ち合わせていない狂気のリーダーたちに対して、国民は犠牲者だという思いが、この戦争の加害責任に思いが至らない原因の一つかもしれない……など、色々考えさせられます。
昨夜テレビを見ていたら、特攻作戦の生き残りの方が『人の命が大切だというのは戦争が終わって、戦後初めて気が付いた』と言っておられました。戦争では、人の命は『一銭五厘』と言った方もいました。戦後70年、知ることはますます大事だと思います。
◎最後に詔書の原文を(日経新聞8月1日):