火曜日の朝のコーヒータイムは、前日の月曜日に母の俳句教室があるときは、母の俳句のお披露目の席にもなります。昨日は、三句。教室の皆さんの票が多かった順に並べてみます。
石段を一段ごとに夏が行く
手探りで生きた日々です敗戦忌
恩深きあの人この人百日紅
母の『敗戦忌』には少し驚きましたが、当然のように使っていますので私も何も言わずでした。
さて、「特別な一日」さんが、8月15日のTBSの「報道特集」を取り上げておられましたが、私もこの番組を見て少し引きずっているというか考えています。SPYBOYさんが番組の内容を簡潔に書いておられますので引用させていただきます(引用元:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20150817/1439809390)
敗戦記念日の15日放送のTBS報道特集『戦争を忘れた東京の70年・ドイツと中国で考える被害と加害』は出色でした。東京大空襲、重慶爆撃、ドレスデン爆撃という民間人を無差別に殺害した3つの戦略爆撃を取り上げた2時間の特集です。
取り上げられていたこと、東京大空襲が公的には殆ど語り継がれていないこと、政府や都は空襲をなかったことにしたがっているという指摘、日本軍による重慶爆撃の被害者のインタビュー、ドレスデン爆撃の語り継がれ方など、どれも勉強になりました。犠牲者の名前の記録すら終わっていない、そして未だに公的なモニュメント一つすらない東京大空襲にしろ、重慶爆撃にしろ、自分も含めて日本人が戦争に真正面から向き合っていないことを思い起こさせるものでした。特に一晩で約10万人が亡くなった東京大空襲で埋葬場所がなく、錦糸町の駅前の公園に1万数千人も死体を埋めたことなどボクは全く知りませんでした。それでも重慶爆撃の被害者を東京大空襲の被害者会が支援していること、ネオナチによるドレスデン爆撃の被害宣伝に実際の被害者たちが猛烈に抗議していること、など希望を感じさせる内容もありました。戦争の残酷さは自分が被害者になるだけでもなく、加害者にもさせられてしまうところでもあると思います。この時期になると戦争被害を訴える声がマスコミに並びますが、それだけでいいのだろうか、と思ってしまいます。戦争に正面から向き合わないとまた同じことが起きるのではないか、という気がしてなりません。
◎私が引きずっているのは、なぜ国レベル(個人や地域やグループではなくて)で、東京大空襲が忘れ去られたようになっているのか、そしてなぜ日本人は中国での200回にも及ぶ爆撃だったという重慶爆撃のことを知らないのか、知らされていないのか(知らないのは私だけではないだろうと思って書いています)ということです。
そして、思い至るのは、前の日にアップした白井聡氏の記事の次の個所です:「戦後間もなくして冷戦が始まったため、アメリカは日本を反共産主義の砦とするために占領政策を転換して、戦前のファシスト勢力を温存するという決断を下した。だから日本の支配層はアメリカに対しては無制限対米従属になるわけですが、その引き換えにアジア及び国内に対しては、敗戦を否認することを続けてきた。」
戦時中の軍指導者らによる専制支配のあとは、GHQによる占領支配があり、原爆の被害は隠され、東京大空襲の被害を声高に言えば、相手はアメリカ。アメリカが許さなかったという面もあれば、遠慮して?言い出さないようにした面もあったのでは。被害の責任を追及しないということは、自らの加害責任をも追及しないことになります。
つくづく、日本の戦後はアメリカとの関係だと思います。思えば、私たち世代は、物心ついたころからず〜とアメリカの両面をもろに受け止め、そして憲法9条が危うくなる現実を見続けてきました。9条があるのに作られた『自衛隊』。市内で二つ目の新設中学校の運動場の整地に、学校か教育委員会がお願いしたのか、自衛隊がやってきたことがありました。なんとなく不安で不穏な雰囲気を感じたものです。大歓迎という感じではなく、でも、校長先生に感謝しなさいと言われたような・・・・確かにあの当時は日陰者の自衛隊でした。(吉田茂「君たちが日陰者である時の方が、国民は日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」−−昭和32年、防衛大学校第一回卒業式で「文藝春秋」6月号)
本土にもあった基地反対闘争が反米闘争になるのを恐れて占領下の沖縄に集中するようになって、あれ以後、本土の私たちは日本の本当の姿を見失ってしまったのかもしれません。あれは私が大学1年生の夏でした。高校野球が記念の年で、沖縄が招待されました。私も高校生の妹を誘って沖縄の応援に行きました。出場校が多くて、一回戦は甲子園ではなく西宮球場でした。この大会で敗れた沖縄のナインが甲子園の土を記念に持ち帰ろうとしたら、砂や土は海外持ち出し禁止で、小袋に入れた砂を捨てる球児たちの写真が涙を誘いました。沖縄返還が国民的な悲願であった頃です。
私の幼いころの記憶で、”チューコーヒン”の記憶があります。まだ幼稚園児の頃、豊中市の岡町にいたころの記憶ですので、昭和25年ごろまでのことです。母に連れられて行った公民館のような建物、その広い床に古着が一山ごとに並べてあります。私はその山の間を飛び跳ねていました。古着の山の中から好みのものを買ったのか貰ったのか、持ち帰り、洗って解いて生地にしたり毛糸にしたりして、私たちの着る物を拵えてくれました。ある時、田舎から来ていた父の10歳ほど年下の妹に、母がその中古品(”チューコーヒン”とはこのことだった!)の真紅のロングドレスを着せて、写真に撮りました。当時、写真機を触るのは父しかいなかったので、父もその場にいたのですね、その小さな正方形の白黒写真をよく覚えています。解体する前、原型をとどめているうちに着てみたらということで、母と叔母がはしゃいでいて、私も楽しかったのを覚えています。そして母はいつも、「アメリカは偉いね〜、戦争で負けた国に、こんなものを送ってくれる。まだ着れるのに。生地は上等、色は鮮やかだし」と言っていました。物のない時代で、赤と緑の発色の良い毛糸は編み込み柄の温かいセーターに生まれ変わりました。鬼畜米英のアメリカが、負けてみたら親切だった。『鬼畜米英』と教え込んだ方が間違っていたというのが実感だったのでしょうね。
母は、敗戦の日の先日、15日に、こんな話をしました。福井を爆撃したB29が、その後金沢の方角へ飛んでいく時、大聖寺の父の実家の二階で乳飲み子の私を抱いて身体を固くして、あの気味の悪いブルンブルンというプロペラ音に怯えていた。ところが、後でわかったのだが、B29は金沢を素通りして富山を爆撃したのだそうです。今でも、B29のブルンブルンというあの音は耳元に残っているとも。そして、戦争はダメ、戦争だけはしたらアカン。何であんな戦争をしたんやろね〜。誰がしたんやろね〜。
さて、SPYBOYさんが感じた希望についてです。
アメリカによる東京大空襲の被害者は、日本軍による重慶爆撃の被害者と交流をしています。ドレスデンの被害者は、被害の数字を誇大に歪めるネオナチに反対して、数年がかりで正しい被害者数を確認し直し、ネオナチが被害者を利用することに断固反対の闘いを挑んでいます。どれも、個別の被害を通して、戦争そのものに反対する活動になっています。まさに9条の目指す平和です。
日本は、今、沖縄が戦後の日本のいびつな国の在り方に県民の大勢が異を唱えて頑張っています。沖縄は日本の一部です。沖縄を通して日本の在り方を正す方向へと考えるチャンスです。昔日本じゃなかったから、今沖縄が望むなら、独立したら…では、沖縄がかわいそう・・・というより本土の人間がそんなことでいいのと思います。日本の一部だからこそ、あの戦争で沖縄は戦い死んで多大な犠牲者を出しました。独立すれば…は、翁長知事が言う「日本から切り離す」ことです。アメリカとの関係を、本土が沖縄と一体となって正す方向で解決していくことを目指してほしいと思います。
16日の日経新聞の社説は「戦没者を静かに追悼できる環境を」というタイトルで、「分祀や新施設も選択肢」と靖国問題に決着をつける時という内容でした。戦争の責任にしても、後ろ向きではない、前向きの責任の取り方で考えたい。昭和天皇の戦争中や戦後の責任は重いと思いますが、今のところ平成の天皇皇后は、後戻りする国のブレーキ役を時々の公務の際のお言葉で果たそうとされています。
2000万人ものアジアの人々を殺したという第2次大戦の責任を、私たち国民は平和憲法を守ること、守り抜くことで果たしていくしかない。それが本当のお詫びであり反省ではないかと思います。そして、そう考えて声を挙げ始めた若い人たちが日本の希望であると思います。
◎写真の表は、「戦後70年 毎日新聞 数字は証言する〜データで見る太平洋戦争〜第7回 アジアは一つだったのか/帝国崩壊 死者が2000万人を超えた」(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20150817/1439755943)からコピーしました。
戦後のサンフランシスコ講和会議(1951年9月)で、自国の死者数をインドネシアは400万人、フィリピンは100万人と公表した。
他の国では、ベトナム(旧仏領インドシナ)が200万人、インドは戦場にならなかったにもかかわらず、飢餓による死者が150万人に達した。主要国土が戦場と化した中国は1000万人以上とされる。日本なども含めるとアジア全域では2000万人以上が犠牲となった。
◎「重慶爆撃とは何だったのか」(http://www.fben.jp/bookcolumn/2009/06/post_2205.html)
著者 戦争と空爆問題研究会、 出版 高文研
第2次大戦中、日本は全国66都市がアメリカ軍によってナパーム攻撃を受けたが、その5年以上も前に、日本軍は中国・重慶市民の頭上に200回をこす間断ない空中爆撃を行い、2万人あまりの死傷者を出した。日本は、戦略爆撃の作戦名を公式に掲げて、組織的・断続的な空襲を最初に始めた国なのである。<省略>