”文民統制(シビリアンコントロール)なき『軍隊』”(立花隆)

(「米中海軍友好交流とシシガシラ満開」に次いで二つ目です)
◎月遅れの「文藝春秋」(11月号)を手に、父がコーヒータイムにやってきました。毎号のエッセイのトップは立花隆氏です。「文民統制の危機」というタイトルでした。
9月17日の、あの安保法案強行採決国会中継をたまたま見ていて、あっけにとられたというところから始まって、元軍人のヒゲの隊長が指揮する強行採決現場の再現からタイトルの内容を書き起こしています。私も中継を見ていたひとりとして、このエッセイの内容はとてもリアルに受け止めることが出来ました。書き移してみます。


文民統制の危機     
          立花 隆(評論家)


 唖然とした。何なんだこれは、と思った。あっけにとられて、しばらくテレビ実況に見入った。9月17日の安保法案強行採決の場面だ。あの法案を巡る駆け引きに強い関心をもって熱心にみていたわけではない。攻防が最終段階にきていることは知っていたので、他の仕事をしながら「そういえば、あれはどうなったのかな」という程度の軽い気持ちでときどきNHKにチャンネルを合わせていた。そしたら、ほとんどピッタリのタイミングであの強行劇を見守ることになった。
 何に唖然としたかというと、あの決定過程だ。野党から平和安全法制特別委の鴻池委員長に対して不信任動議が出された。その採決をする間、委員長職が鴻池氏から自民党の筆頭理事たる佐藤正久議員(かつてのイラク派遣自衛隊のヒゲの隊長)にゆずり渡された。しばらくして不信任動議が否決されると、鴻池委員長が委員長席に復帰した。その瞬間だった。強行採決劇が一挙に進行した。突如屈強な一群の若手自民党議員団が入って来たかと思うと、アッという間に委員長席周辺を取り囲んだ。そのただならぬ様子にいよいよと察知した野党議員たちがドッとかけつけた。忽ち両陣営が入り乱れての怒鳴り合い、つかみ合い、殴る蹴るの乱闘シーンがあちこちで繰り広げられた。怒号が飛びかう中、いつの間にか議場の一角に移動していたヒゲの隊長が手を何度か上下に振ると、それに合わせて与党議員たちが一斉に立ったり座ったりを繰り返した。声がちゃんと収録されていなかったので、テレビを見ている人には何が起きているのかさっぱりわからない。テレビ実況のアナウンサーが、「今何が行われているんですか?」「さあ何ですかね」と言葉を濁したくらいだ議事録上は「議場騒然。聴取不能とのみ書かれているという。聴取不能のわずか八分間のうちに、合わせて十一本の安保関連法案の採決が全部終わっていた(と自民党は主張し、野党は無効を主張している)。まるで、見物人の気が一瞬そがれた隙にすべてが終わってしまう高等手品のような法案さばきだった。



 この間何といっても目立ったのは、議場の一角から全体の指揮をとっていたヒゲの隊長の采配ぶりである。優れた指揮官は戦場で味方の軍に指揮棒を一閃させるだけで、自由自在に兵を動かすといわれるが、それはこういうことをいうのだろうと思った。その見事な統率力と采配ぶりに感心もしたが、同時になんじゃこれはと思った。こんなことが許されていいのだろうかと思った。各紙の報道を合わせると、ヒゲの隊長らは防衛大学校の年中行事・開校祭の棒倒し合戦を参考に相当の時間をかけて、策を練り、シミュレーションと練習を重ねた上で本番に臨んだという。ヒゲの隊長は正真正銘の軍人(自衛官)出身の政治家である。元軍人が国会の議場の一角に陣取って、議員たちを右から左に自由に動かしていたのである。そして”軍”の将来のために必要とされる法律案を無理やり通してしまったのだ。これ程の無茶苦茶は、昭和戦前期の議会で政党政治がテロで一瞬に瓦解し、軍の専横時代を全面的に開花させたあの時代ですら行われなかったことだ。
 悪夢を見る思いだった。軍が関わる最重要の国策変更を、元軍人が前面に出て現場指揮を執ることで一挙に強行突破で片付けてしまったのだ。それもわずか八分で。


 この場面を見ていてつくづく感じたのは、軍という組織が持つ圧倒的な行動力と組織力である。あれを見て、軍が中心になって行動すれば、クーデタなんかすぐにできると思った史上最も有名なクーデタは、ナポレオンが一瞬にして政権を掌握した「ブリュメール十八日(1799年」)のクーデタ」だが、今回のヒゲの隊長の作戦は、手際からいって、それをはるかにしのぐものだった。軍はこういう危険性を内包した組織であるだけに、それ的な暴走を絶対に起こさせない仕掛けを内部に持っていなければならない。それがシビリアンコントロールという制度である。現代のいかなる国家も、軍という武力装置を持つと同時に、それに付随して軍を暴走させないためのシビリアンコントロール制度をあわせ持っている。

 軍は、近代国家各国において、合法的武力を持つことを許された唯一の組織だから、武力行使にさまざまの歯止めがかけられている。その最大のものが、シビリアンコントロールの大原則だ。軍人たちは軍の武力を好き勝手に使うことは出来ない。軍と無縁の外部の人間(シビリアン)から武力の整備、人員配備など予算に関わる一切について厳重なチェックを受けなければならない。


 戦前の日本では、軍は天皇に直属直結する組織としてシビリアン(一般市民)のはるか上に立っていたから、市民の側からの製肘を一切受けなかった。戦後、憲法九条によってそもそも軍を持たない国家になった日本では、シビリアンコントロールの問題が真剣な議論の対象になることはなかった。保安隊や自衛隊が存在するようになっても、その武力が、市民を害する危険性はないと考えられてきた。自衛隊の出動は災害救助がもっぱらだった。 
 そういう平和な日々が続くなかで、軍の暴走を防ぐシビリアンコントロールが重要という考えが、日本人の頭から抜け落ちていった。そしてついに今年六月、形式的には保たれていたその最後のかすがいも、日本の社会から外れてしまった。 防衛省設置法の改正という形で、防衛省における背広組(内局官僚)の制服組(自衛官)に対する優位性原則(どちらがどちらのいくことをきかねばならないか)が取り払われてしまったのだいまでは、背広組と制服組は完全に同列化したその結果、日本は、軍隊(自衛隊)を持ちながら、その内部でシビリアンコントロールの原則が貫徹していないという世界でも珍しい国になった。



 そこに起きたのが今回の安保法案にまつわる事態である。その強行採決である。その現場をしきったのが、ヒゲの隊長だった日本は制服組がいつでも先頭に立って国政を仕切ることが可能な国家になってしまっているということを誰の目にも明らかにした事態だったシビリアンコントロールがなくなった軍隊はいとも簡単にクーデタを起こすことができるというのが、世界史の教えるところだ。それを杞憂というなら、万が一にも杞憂が起こさせない制度的補償を一刻も早く作り直すべきだと私は思う。
 安倍首相は、シビリアンコントロール制度は日本から消えたわけではない、その根幹は、軍の最高司令官たる日本の総理大臣が文民でなければならない(憲法六十六条)というところにある、という意味の答弁をおこなって(シビリアンコントロールは、「国民から選ばれた総理大臣が最高司令官であるということにおいて完結している」)国民を安心させた。だが、安保法案騒動のなかで国民の相当部分が、安倍首相の平和マインドそのものを疑いはじめている日本は軍と軍人にいかなる地位を与えるべきなのか。いかなる行動準則を与えるべきなのか。真剣に考えるべきときがきているのではないか。