「生まれ故郷・空襲の御影再訪」(2)


◎私の若い頃、阪急電車の窓から見た石屋川には、六甲の山の土を満載したトラックが土手沿いの道を真っ直ぐ海に向かって毎日のように走っていました。
それが、土を載せたベルトコンベアになり、何年かたって、あの六甲アイランドが出来たのでした。
それでも、六甲の山の稜線だけは、今も変わらないようです。
それでは、先生の「再訪の御影」、つづきです:
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ふるさと探訪  生まれ故郷・御影 

<略>
 石屋川の左岸堤防の上を北に向かって歩きました。トンボを追っかけたり、カニや小魚採りに夢中になって遊んだ頃の川の面影は消え、開発や災害の歴史の中で何回も改修工事を重ねて、結局は住民が水辺に親しみやすくなるようにと…川べりに遊歩道や親水公園が整備された…現在のような川に作り替えられたとか。石屋川の上流遥か…脳裏にうかぶあの稜線は、西から東へ麻耶・六甲山へのとつづくシルエットですね。
 国道2号が通る『石屋川橋』のたもと…その北東角に地上3階のレトロな雰囲気が漂う建物…アニメ映画’火垂るの墓’の中にも描かれた『御影公会堂』…S08.05/20(1933)竣工して今年76年経過? 記録によれば「S20.06/05(1945)神戸東部に来襲した多数のB-29爆撃機焼夷弾投下により『御影公会堂』も地下室の一部を除いて内部を全焼する」 戦後、特に1950年代には逐次 改修工事が行われ、1983年夏に閉鎖されるまでは『市民総合結婚式場』としても広く活用された由。以後は『集会施設』として運営されているとのこと…たまたま目に触れた「食堂営業中」の矢印に促されるよう地階に降りてみました。


こじんまりとしたスペース、板張りの床にやや薄暗い照明、些か黒ずんだ壁には古びた額縁入りの油絵が無造作に…。3〜4人の女性グループはお喋り一辺倒、週刊誌片手にホットコーヒーは独りぽっちのサラリーマンふう、ママ…孤軍奮闘!は普段着姿の親子連れ…’お買い物帰り’の様子、何となく? 地下食堂で一番人気のオムライスをほお張りながら、60数年前には空襲警報におびえつつ…住民一人一回限りの’炊き出し’飯にありつこうと、長時間も厭わず待ち並んだこの場所この建物…今、彷彿と脳裏に浮かび悲しくもあり、懐かしくもある思い出の数々。
1955年1月17日早朝、阪神・淡路地方を襲った震度7.2の大地震にも被害僅少に耐え、恐怖と戦慄にわななく多数の被災住民の避難所として、大切な役割を果たした『御影公会堂』。
外装は瀟洒にして構造は堅牢なる建物…『御影公会堂』を市民の誇りとして、文化遺産として後世に永く残したいものだと思いますね。
<略>
 大阪から神戸へ向かうJR神戸線の電車が高架橋で石屋川を横切る…その直前、通過地点の右手(山側)線路わきに赤い鳥居の神社…通称「御影の天神さま」と呼ばれている『綱敷天満神社』…元旦には毎年のように親父に連れられての’初詣で’…緑豊かなアカマツ林の中に古色蒼然たる社殿の佇まい…子どもの頃のそんな記憶をたどりながら…と思いきや、現実は拝殿・本殿ともに鮮やかな朱赤色、付属の金具類は金色に輝き、疎らになった木立は駐車場と化して往年のアカマツ林も今は見る影もなし。

 『綱敷天満神社』の神職(祢宜)さんの説明では「太平洋戦争末期、日を追って激しくなる『空襲警報』の発令そして『敵機来襲!』…悲鳴にも似た 叫び に怯え逃げ惑う市民、その頭上に雨あられと容赦なく投下されるB-29爆撃機からの焼夷弾。こうして、<御影>の街全体が瞬く間に火の海と化したのは(1945-6-5)のことでした。
 この神社は少し山寄りに位置するためか町なか程の惨禍は何とか免れ、被害は社務所地車庫(だんじり車庫)の焼失くらい、それでも…」と、見当もつかない多くの犠牲者を悼む神職(祢宜)さんの表情には隠すことのできない悲しみが…。
 ここで一息入れて「先年(1995-1-17)の阪神淡路大地震では、当神社も本殿や拝殿をはじめ大鳥居まで…全ての建造物が倒壊してしまいました。しかし、氏子や崇敬者からの浄財により大鳥居は平成7(1995)年12月に、ほかの社殿も平成9(1997)年に再建されたのです」。
 帰り道、目に映った神社境内の光景、それは60数年前の記憶…あの’豊かなアカマツ林の緑’は すっかり疎らとなり、そこには幾多の災害に耐え抜いて生きる数本の古木ムクノキの寂しげな佇まい…それが強く印象に残ったことでした。
 <後略>

     平成21年3月23日    藤下 英也



 太平洋戦争の末期、B29戦略爆撃機から投下された焼夷弾で焼き尽くされた御影の街並み、一面の焦土と化した焼跡に不安と恐怖に怯えうずくまる民間の人々、その頭上に空から撒かれたアメリカの<宣伝ビラ>、拾おうものなら容赦なく’非国民’呼ばわりで罵倒される。そんな当局の厳しい目をかいくぐり、ただひたすら隠し持っていた64年余…その2枚。


中部軍管区司令部 発表(6月5日10時)」より


 敵は今後においても軍需、生産地帯、港湾施設等の攻撃と共に、一般住民地帯の攻撃を企画すべきを持って、迅速なる防空態勢の強化を要す。なお戦意喪失を目的とする敵の宣伝に乗せらるゝがごときなきを要すること勿論なり。


◎前回、送って戴いた「人生記録」は、今年になってから、「自転車で近くまで来たから…」とチャイムを鳴らしてくれたMさんにお渡ししました。昨年、同窓会の世話役で一緒だった萱小の彼女です。私のブログを読んでいる同窓生は数少ないので、「私が先生の体験記を手元に置いているのはモッタイナイので」と渡しました。「読み終わったら、誰かに回してね。その方が先生も喜ばれると思う」と私。「わかった! 読み終わったら先生に手紙書くわ。次は、K君に回して、読んだら戻すように言うから」「じゃ、戻ってきたら、私から、箕小関係は回すから」ということになりました。先生の空襲の記憶と反戦の思いが、私達教え子の間で伝わることになりそうです。