「障碍者施設無差別殺人事件と草の根ファシズム」

◎相模原の大量殺傷事件は気味が悪い事件です。捕まった容疑者の笑い顔も気味悪いし、衆院議長あての手紙の内容も気味が悪い。でも、この気味悪さはどこかで感じた気味悪さです。麻生氏の「ナチスの手口を学んだら」を聞いた時も、自民党改憲草案を読んだときにも感じる気味悪さに共通しています。

内田樹さんがリツイート

イルコモンズ ‏@illcommonz · 7月26日
「是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います」・「老人には死ぬ義務がある」(曽野綾子)・「九十歳なのにいつまで生きるつもりかよ」(麻生太郎)・「障がい者安楽死できる世界」(植松聖)
因果関係はないが、相関関係はある。

◎どこかで、弱者や権力者の気に入らないものは抹殺する、三浦朱門曽野綾子夫妻の教育論、エリートは少数でいい、あとは出来なくても従順であればよい、にも通ずる気味悪さです。一人一人が大切にされる世の中から、選別され、振り落とされ、見捨てられる社会へ。安倍政権が推し進める政治のやり方に似た気味悪さです。「☆句の無限遠点☆」さんのブログが、その気味悪さを”草の根ファシズム”と名付けて書いておられます。
(引用元:http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20160727/1469590491

障碍者施設無差別殺人事件と草の根ファシズム


一昨日神奈川県の障害者施設で無差別殺人があったときき、とうとう日本もファシズムが露出してきたと痛切に感じた。


1999年に都知事石原慎太郎が、都下の障碍者施設を訪問して
障碍者に人格があるのか」、
「ヨーロッパならみんな切り捨てられるはずだ」
安楽死ということも考えられる」
等々発言して物議をかもした。


石原は数日後の記者会見では、モノカキとして、一人の人間として考えさせられたと人格を否定しているわけではないという主旨の言葉で煙に捲いたが、彼は人間としての人権を認めるのは疑問であり、自分が何者かもわからないのだから安楽死をもって「処分」してもいいのではないかという意味を暗に発していたのである。


その前1977年には、環境庁長官時代に、水俣病患者の直訴文をみて
「IQの低い人が書いたような字だ」
と暴言を放った。
病気特有の手足の震えをこらえて必死に気持ちを訴えようとした患者に、平然とこういうむごい言葉を吐いたのだ。
さらに、
「偽患者もいる」と暴言をはき、結局患者の前で土下座して謝罪をしている。


また、
「生殖能力なくなった女は生きている価値はない」
とも。
女をただの生殖マシーンとして考える男尊女卑どころか、そうした人権否定のマッチョな考えが、実はファシズムに特徴的であることも知らずに、得意に作家という特権的立場なら許されるという態度をとってきた。


今回の犯人の衆議院議長への直訴状をみれば、石原の考えとほとんど変わらない。

石原が多くの国民に批判されているうちに、特異な作家や右翼サディストらの思想を共有した一定の若年層へどんどん広がった。

在得会のヘイトスピーチブラック企業の若者脅迫的拘束労働、橋下徹の職員思想弾圧など従来なかった事象である

この障碍者への蔑視は、誰かが一方的に社会の役に立たない、と主観的に断定すると、殺処分すなわち安楽死が妥当であると決定づける思考法である

主観的判断は、もちろん権力者(政治権力とは限らない、フーコーの言うあらゆる権力)であって、決して社会的に「役に立たない集団」側ではない


さらに2000年、自衛隊の式典挨拶では、
不法入国した第三国人(戦前の植民地住民の蔑称)が凶悪犯罪をくりかえしている。こういう状況で大きな災害が起きたら大きな騒擾事件すら想定される」と発言。
この考えは、関東大震災朝鮮人が井戸に毒をまいたという嘘が流布され、1000人が暴徒に殺害された事件を踏まえている。つまり虚偽を本当のこととして憂慮しているわけだ。


この考えは現在安倍内閣が、憲法改正で狙っている「緊急事態条項(http://mainichi.jp/articles/20160202/dde/012/010/006000c)へ根底でつながるのである。

つまり首相権限で、憲法からすべての法律、人権、結社の自由、表現の自由は停止できることになるのだ。ナチスの全権委任法である


ありもしなかったことを前提に、或いはひたすら人権を嫌悪する思想で、自分たちの都合を法的根拠によって正当性をもたせる─これが堂々と権力者と唱和する国民で進行させられているのである。


こうしたマインドは、観光地にも表れていて、軍艦島のガイドは最近過去に「朝鮮人が連れてこられて働いていた」という説明を止めた
それは観光客から、ありもしない事を言うなと抗議されることが多く、それをめぐってギクシャクするのは、他の客を巻き込み不快な思いをさせるのでやめましたと証言している。
従来史実としても当然のことで、現地では皆が知っていた事実である。これも「新しい教科書をつくる会」など右翼の「歴史戦」の結果であろう。国家主義者に不都合はすべて教科書から消し去る、不都合な発言は圧力で潰していく。これが1990年代の「成果」である


無知なB層は、小池百合子が鳥越候補を、「病み上がり」と揶揄して、病気したような人間は役に立たない、知事の仕事なんかできないと言ったことに何の反応も示さず支援している。
都民は日本国民の縮図だ、こういう人間としての感度ががたがた落ちていることを明白にさらしている。


「役に立つ/役に立たない」は、「要る人/要らない人」へ置換される。
そしてさらに一定の条件が整うと「隷属させる人/殺していい人」へ分類される。


松浦信也氏の発言を引用させていただくならば、

先天性の障碍者とは、あり得たかもしれない自分で、後天的な障碍者は「あり得るかもしれない自分」だ
彼らの生きやすい社会を作ることは、自分が生きやすい社会を作ることに他ならない。きれいごとに思えるかも知れないが、他の道はない。排斥と抹殺は、自分を排斥・抹殺することに他ならない。」



すなわち、人間の社会の営みは、一定のグルーブにとって役に立つかどうかではない。
近代の理念は、封建制度から離脱する基本的原理として、「人権」と「自由」を置いた
それの根拠づけとして、社会に生きとし生ける者は、「対等のメンバーシップ」というマインドをルソーもヘーゲルも獲得したのである。
近代の自由と人権を享受している者は、これを否定することは、自らを否定することであって、こうしたアクロバティックな思想は奇形にすぎない。