ETV特集「加藤周一 その青春と戦争」 2016.08.13


◎8月13日、お盆前の土曜日に放送されたNHKEテレ)の「加藤周一 その青春と戦争」、メモとして残しておきたいと思いながら、なかなかまとまりません。そのうち、放送内容全文を書き起こしされているブログを見つけました。見逃した方はぜひそちらを。

◆全文書き起こしブログ:http://o.x0.com/m/324867

私は、最後の部分、”サバイバル(生き残り)コンプレックス”を抱いた加藤周一氏が、戦病死した親友を『裏切』ることはできないと、「憲法九条の会」の立ち上げに参加、親交のあった樋口陽一氏がその憲法9条の意義を語る言葉:「逆に西洋にまだなくて、ひょっとして日本がこれからつくりうるかもしれないもの」という見方が、この「青春(戦争)ノート」という加藤氏の思索の原点の行き着く先を示しているようで、とても心に残ります。(写真は全て録画画面をカメラで撮ったもの)

加藤周一 その青春と戦争」NHK(Eテレ)
本放送 2016年8月13日(土)午後11時00分〜午前0時00分


戦後日本を代表する評論家・加藤周一の「青春ノート」が公開された。詩や評論、翻訳など新発見のノートは8冊。日中戦争から太平洋戦争の時代、若き加藤は社会の中で孤独を感じ、戦争協力に雪崩をうつ知識人に批判のまなざしを向けていた。立命館大学の学生たちがノートを読み解き、今の時代を考える。さらに作家の大江健三郎池澤夏樹、詩人の山崎剛太郎、憲法学者樋口陽一加藤ゆかりの人々の証言で、その思想の原点を考える

◎書き起こしブログから、私なりにピックアップしてダイジェスト版です:(立命館大の学生たちや日記に書き記された詩や池澤夏樹氏の言葉など省略するに惜しい部分もたくさんありますので、全文書き起こしがおすすめです)

◇2016年1月3日、 かつて加藤周一が教鞭を執った立命館大学。 今年4月新たに加藤周一文庫が開設されました。遺族から2万冊の蔵書の他に1万ページに上る手稿などが寄贈されました。 文学から芸術政治に至るまで幅広い評論活動で戦後民主主義を牽引した加藤周一。 その著作は200点を超えます。

加藤は8年前にこの世を去りました。 元編集者の鷲巣力さんは40年にわたって加藤と交流がありました。 加藤の死後誰も知らなかった記録が見つかりました。 加藤が亡くなって3年後に見つかったお菓子の缶。その中に残された8冊の大学ノート。旧制高校から大学時代(17歳から22歳)にかけて書かれたものです。 揺れ動く若き加藤の心の記録。


(鷲巣)「それはびっくりしましたよね。 まさかこんなものが出てくるという事は」「私は学生時代に書いたものがあるっていう事は聞いてなかったし。 でも大事に取ってあったんですよね。」

残された加藤周一の8冊の「青春ノート」をもとに若者たちが戦争の時代を見つめていきます。

ノートが書き始められたのは、1937年。この年の7月勃発したのが日中戦争でした。 以後日本は8年にわたる戦争の時代に突入します。 このころ加藤は17歳。 旧制第一高等学校の2年生でした。 開業医を営む父のもと東京・渋谷で育ちました。

◇1940年パリ陥落。加藤がフランスに思いをはせている頃日本はドイツイタリアと日独伊三国同盟を結びました。 加藤がこのころノートに翻訳していたのが小説「チボー家の人々」。 第一次世界大戦に向かうフランス社会を描いた大河小説です。 加藤は「チボー家の人々」を翻訳しながら迫り来る戦争を予感していました。

「私は1914年戦争を舞台とするある長編小説を読みながらしきりに現代を想い歴史は繰りかえすの感を深くした」。 「1940年はいかに1914年に似ていることか!現代は何度絶望したら許されるのか!と。 1914年以降20世紀は廃墟の上に絶望と痛恨との日々を送った」。


◇ノートには創作活動を共にした詩人の名前が書かれていました。
山崎剛太郎」。
加藤とは高校時代から死の直前まで交流を続けました。山崎氏が語ります。「はっきり言って戦争は嫌だなっていう事を言っててね。戦争というのはね国と国の戦争でね、その国の一番偉い人…そのお互いをね憎み合って戦争すると。しかし駆り出される人間っていうのは、お互いに何も知らないで戦う。 そういう不幸がある。 それがいわゆる戦争というものの特徴である、というような考え方を持っていたね。」
◎開戦のその日の日記もあります:

◇その日。 加藤はいつものように東大医学部に向かっていました。 「大本営陸海軍部発表」。「12月8日帝国陸海軍は本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。 太平洋戦争開戦の日1941年12月8日。加藤がまず記していたのは2行のフランス語でした。
Einfinlaguerre.Dclarationdelaguerre.(宣戦布告)」。 「Quiafait?(誰がしたんだ?)」「pourquoi?(何のために?)」
「K君が朝大学の裏門を潜った所で無造作に話しかける。 『とうとうやったね』」。
T教授が授業のあとで手術台に手をかけながら『医学生の覚悟』を促す」。 「『始まりましたねこういう緊張した所で勉強するのも男子の本懐ですかな』」。 「皆がそれを話題にする。」
「 街にはラジオの前に人が集まってニュースをきいている。 ちょうど相撲の放送をきく人の群れのように。 しかしそれよりも落ち着いた静かさで。 最も静かなものは空である。 今日冬の空は青く冷たく澄んでいる。 水のように静かに。 ヴェルレーヌの聖なる静寂を想わせる」。

◎ 太平洋戦争開戦と同時に日本軍は東南アジア各地に侵攻。1942年2月、シンガポール陥落の頃の日記。

◇「2月18日の日記」「シンガポール陥落の祝賀式を『全国一斉に』やれというおかみの布告である。 大学は授業を休んだ」。加藤が注目していた一人が作家横光利一でした。 当時新感覚派の旗手だった横光は若者たちに絶大な人気を誇っていました。 アジアの作家たちに日本の戦争理念を訴える大東亜文学者大会。その主要メンバーの一人が横光でした。 こうした横光の姿に加藤の不信は深まっていきます。 言葉を持っているからその言葉を使ってみんなの高揚感をあおる。 戦争に雪崩を打っていく知識人。加藤のまなざしは学生へも向けられていきます。

注目したのが懸賞論文「時局下に於ける学生」。 入選作を読んだ加藤は時局に迎合する若者を痛烈に批判します:
『学生と時局』という目下流行の問題に関連して。これら若干の学生の一番馬鹿な所は与えられた課題に答案をこしらえる練習ばかりしていて課題を自ら発明する能力のない所に存する。 マルキシズムの次にはヒューマニズムヒューマニズムの次にはファシズムといった塩梅にやってきたものを何でも構わず一応考えまもなく納得したか納得したふりをしてきたのである」。 

◇やがて戦局は悪化日本各地が空襲にさらされるようになります。 加藤を育んだ東京の街も灰燼に帰しました。加藤のノートは開戦の翌年1942年で終わっています1943年学徒出陣が始まります。 二十歳になった文科系の学生は軍に召集されていきます。

加藤は東大医学部の研究室に勤務していましたが東京大空襲のあと長野県上田に疎開しました。そのころ加藤の親友・中西哲吉がフィリピンで戦っていました。2人は高校時代から校内の雑誌や新聞に詩や評論を共に寄稿してきました。

◇(鷲巣)「 中西哲吉というのはむしろ加藤さん以上に戦争に反対であるという事を学生の時から表明していた人で校友会雑誌とか向陵時報によく書いてた人なんですけれども中西哲吉が書くと大学当局はそれだけでにらむというような人だったようなんですね。 彼の書くものというのは加藤さんと全く同じで戯曲もあれば小説もあるし詩もあるし評論もあるしそして古典文学に関心が非常に深い。」「恐らく加藤さんは当時としては一番親近感を抱いていたのが中西哲吉だと思うんですね。」 しかし中西はフィリピンの戦場で戦病死を遂げました。

加藤が中西について語った最晩年のインタビューが残されています。
(加藤)「どうして私じゃなくて彼なのかと。 サバイバルコンプレックスですよ。生き残りコンプレックス。 それが私にもちょっとあるのかもしれない。 つまり彼だったらやるかもしれないというような事を全然やらないでいるっていう事の一種の…何ていうかね後ろめたさっていうか…があると思うんですよね。ほとんど怒りに近い感情で反戦的気分にあおられる」。


◇ 「玉音放送」。その2か月後加藤は広島で戦争の惨禍を目の当たりにし衝撃を受けた事を後に回想しています。
原子爆弾影響日米合同調査団に東大医学部の一員として加わっていました。

「広島には一本の緑の樹さえもなかった。 人の住むことのできる家は一軒もなくしかしその焼け野原には影のようにいつも誰かがさまよっていた」。「1945年8月6日の朝までそこには広島市があり何万もの家庭があって身のまわりの小さなよろこびや悲しみや後悔や希望があったのだ」。

◇ なぜ日本は悲惨な戦争へと向かったのか。加藤は医師の傍ら次々に評論を発表していきます。
軍国主義が亡びるや言うべくして言えなかったことを言おうという人々は東京の焼け跡のいたるところに現れ類をもって集まろうとしていた。」
「そのときはじめて私は時代の機運のなかにいる自分を感じた」。

◇ 敗戦直後加藤が書いた最初の論文が「天皇制を論ず−問題は天皇ではなくて天皇制」でした。
作家大江健三郎さんは加藤周一文庫開設を記念した講演会でこの論文を取り上げました。

(大江)「『天皇制を論ず』という短い文章にですね天皇制はなぜやめなければならないかを書いています。 これを…加藤さんが言ってる事はですねこの天皇制が太平洋戦争というものを導いて日本人にああいう苦しみを与えたと。 悲惨を与えたと。 そういう経験があってやっと憲法を作り替える。 天皇は日本の日本人のシンボルなんだと。 大きい権力でも何でもない。 いわんや大きい暴力である事はありえないという事を私たちは憲法に書いたそしてそれを今も持ち続けてるって事がどんなに大切な事かと。」

…その後加藤は文筆活動の傍らカナダ西ドイツアメリカそして中国の大学などで教鞭を執り続けました。 代表作「日本文学史序説」で文学を通して日本人の思想・精神を明らかにし一方で政治や社会問題に積極的に発言。 戦後の言論を牽引しました。

享年89。
死を前にした加藤がつづったメモが残されていました。

「私は戦争で二人の親友を失った。 もし彼らが生きていたら決して日本が再び戦争への道を歩み出すのを黙って見てはいないだろう。南の海で死んだ私の親友は日本が再び戦争をしないことを願ったに違いない。 憲法九条にはその願いが込められている。私は親友を裏切りたくない」。

太平洋戦争で亡くなった日本人は310万人
加藤と同じ世代の多くの若者が命を落としました。
再びこの歴史を繰り返してはならない。
晩年の加藤が「九条の会」の呼びかけ人となったのもこうした思いからでした

樋口陽一氏)「冷静に自国の事であればあるだけ冷静に批判的に見ていかなくちゃいけないというのが加藤さんの時代批評の基本ですね。
それと同時に、加藤さんにとって西洋にあって日本にまだ十分にないもの、いわば、逆に西洋にまだなくて、ひょっとして日本がこれからつくりうるかもしれないもの.という見方も忘れてはいません。忘れてはいないというか非常に重要なものとして提示していますね。
それが日本国憲法で言えば第九条ですそれは現在世界中を暴力の連鎖が覆い尽くそうというところにまで来ています。 その中で戦後日本がつくり出しかけているものつくり出しつつあるものそれを大事にしていこうじゃないかと。」


戦争の時代加藤周一がしたためた8冊の「青春ノート」。
70年後の今若者たちは加藤の言葉から何を受け取ったのでしょうか。

「やはり僕も今の現在社会で生きていく中で加藤さんのように少しでも自分が疑問に思ったり違和感を持ったりしたら……という事を大切にしたいと思います。」
「 文化に対して差別感がなくて差別なく全部受け入れてしかもその魅力をみんなに…伝わるというか。 そういうところは私にとってはすごく勉強になったというか。 自分もこれからこういう視点を持って生きていこうかなと思います。」
「 要するにナショナリズム的なものが入ってこなくて文化は国境がないというとこがすごく魅力を感じたところだと思います」。
「 加藤さんが人間の絶望的弱さを信じているけど人間の弱さに絶望はしないっていう事を書かれていて…。
歴史は繰り返すのは人の弱さかもしれないけどもしそれを何か乗り越えるものがあるとしたら人の力だと思っていて。
それをより…その力をより発揮するための手段が人をつなぐ事だと思います。
自分自身人の弱さを認めながら人の力を信じて人と人をつなぐそういう生き方をしていけたらいいかなと思います」。


「(戦争)大事件は何時も前ぶれなしに突然平和な何ごとも予期していない社会を混乱の中に投げこむ。
それまでは時は何時もながら静かに戦争の前の日も空の美しく晴れ子供たちのたわむれている街の上を流れ去る」。
(「チボー家の人々」より)


ETV特集加藤周一 その青春と戦争」