平家物語 巻九 「生ずきの沙汰」

 
8月は、我が家の道路を隔てた前の家が完成、今は前庭の工事中。裏の南側も基礎工事が済んだところです。
つくづく、父が倒れる前に、我が家の石垣が崩れかけていたのを見つけて、修理の工事を早くしてよかったと思います。
南側の裏の平屋の解体工事が済んでからは、サンルームから青空が見えるのを楽しみました。
あと10日もすると、2階建ての家が建って、道を隔てた向こうの新築の可愛い家も見えなくなります。
その前に、今の景色を写真に撮っておきました。
北側のSさんの平屋の跡地にも新築の2階建てが2軒並びました。
真向いのFさんの青瓦の屋根との間から箕面の山が少し見えます。
さて、3日の土曜日は9月最初の土曜日、ということで、8月お休みだった古典文学の会の今年度の初日でした。水曜が再開ヨーガの初日、金曜日が月一回のお茶の稽古日、と一度に重なりました。
8月に世話役の引継ぎを済ませたのですが、新しい世話役さんの初日で、私も前の世話役さんにその場で教えてもらって助かったので、早めに出かけて、1時間前に講座室に入りました。相棒だったMさんも早めに顔を出して4人でいるところへ、先生が入ってこられて、新しい人が6人増えるとのこと。減る方を心配していたので、大朗報です。8月の市の広報誌に募集の案内を出しておられて、それを見た人たちがグループで入会されたとか。私も何年か前、”もみじだより”を見て先生にお電話したのでした。
今まで25名中男性一人、だったのが、お二人男性も増えました。”文学”というと女性が多くて、と年会費5000円を払っている男性と先生がお話しされています。会員数30名でスタートということになりました。今日から巻九に入り、いよいよ平家の滅亡に向かいます。敦盛最期や鵯越(ひよどりごえ)の坂落としも含まれています。


今日のお話「生(いけ)ずきの沙汰」の時代は1184年。清盛亡き後、安徳天皇後鳥羽天皇の幼い天皇が二人も。平氏と源氏の争いが一層激しくなります。
木曽義仲平氏追討に出発しようとしていると、頼朝派遣の大群が美濃・伊勢に到着したとの知らせが伝わる。鎌倉出発の際、梶原源太景季(かげすえ)は、頼朝の名馬”いけずき”を懇望したが、結局、佐々木四郎高綱が拝領した。」(概要より)
梶原は、名馬”いけずき”を頼朝にねだったのに、「万一の時、乗る馬なので、劣らぬ名馬”する墨(すみ)”を」下されました。ところが、都に上る途中の駿河の国浮島が原の高いところから見ていると、あの名馬”いけずき”が。「誰の馬か」と尋ねると、「佐々木殿の御馬」とのこと。
ここで、梶原が考えることがすごい。「私が欲しいといった馬を佐々木に与えられた殿が恨めしい。殿のため手柄を立てて死のうと覚悟していたのに、ここで佐々木に勝負を挑んで差し違え、良い侍二人が死ぬことで殿に損をさせてやろう」と思います。
一方、佐々木は自分から名馬が欲しいと言い出したわけではなくて、「鎌倉殿(頼朝のこと)いかがおぼしめされけん、『所望の者はいくらもあれども、存知せよ』とて、いけずきを佐々木にたぶ」(鎌倉殿はどうお思いになったのだろうか、「名馬”いけずき”を所望する者はたくさんいるのだが、それを承知して受け取れ」といって、”いけずき”を佐々木にお与えになる)。

で、佐々木はこのとき、とっさに殿のこの言葉を思い出して、こう答えます:
「梶原殿が所望されたのに、殿のお許しがなかったと聞いておりましたので、まして高綱が所望しても、いただけまいと思って、後日どのようなお咎めがあっても構わないと、舎人(とねり)と心を合わせて、”いけずき”を見事に盗みおおせて都へ上るところです」。
これを聞いて、影季は、立腹も収まって、「さらば影季もぬすむべかりけるものを(私も盗めばよかった)」とて、「どっとわらってのきにけり(立ち去った)」。
男の嫉妬も怖いですが、察してかわす高綱のほうが上手というか、先生の言葉を借りれば「頭がいいですね」。
新しい方たちを迎えて、先生がごあいさつの中で、「古典の中にも変わらぬ人間の思いがありますので、それを読んでいきましょう」と言われたのですが、梶原影季(かげすえ)の心の動きは、自分に至らぬところがと顧みるでなく、即、主を恨むという、侍でもこんな女々しい…? いや、激しい? と恐れ入ります。
(写真は、2階の吹き抜けから見たメープルホール入り口の欅と、中央生涯学習センター3階踊り場から見た芦原公園と、テキストのイラスト、佐々木に名馬を与える場面、門の外に”いけずき”。)