山崎 雅弘 @mas__yamazaki · 20時間20時間前
沖縄の外国軍基地に反対しているのは「本土の左翼」で、地元住民は「賛成している」という嘘の流布も根強いが、それが事実なら、過去の選挙では全て基地受け入れ派の候補が圧勝しているはずだろう。現職の沖縄担当相が落選することもなかった。嘘の流布で現実を歪める汚い手法で安倍晋三様を援護する。
山崎 雅弘さんがリツイート
やがて空は晴れる...。 @masa3799 · 8月27日
マリオコスプレ費用はドカンと12億円、16年度予算が100兆円突破なのに沖縄振興予算は140億円も減額。やっぱり政府のいう事を聞かない沖縄への嫌がらせか。
http://jxd12569and.cocolog-nifty.com/raihu/2016/08/16-a5ab.html …
◎沖縄について「ウィンザー通信」さんが、とても貴重な動画から写真とともに文字起こしして記録されています。いつもながらのお仕事に頭が下がります。内容は、沖縄人民党の党首だった瀬長亀次郎の闘いを紹介する動画で、ナレーションは元NHKのアナウンサーだった山根基世さんです。
2回にわたったこの内容、読んでみて、私もウィンザーさんと似た感想を持ちました。亀次郎の意志は、遺志として受け継がれている。受け継がれているとともに、発展しているとも思いました。そして、裏切り者の子もまた裏切るということに、ちょっと驚きもしました。そのうえ、迫害するも者のやり方もまた受け継がれている。それが、占領軍のアメリカから、日本の為政者が受け継いで、自国民を弾圧するのに同じやり方をしているというのが本当に情けないし、沖縄の不幸があり、「沖縄の不幸」として片づけている本土の傲慢があるんですね。
ところで、瀬長亀次郎という名前。私が、高校生のころ、まだ沖縄の本土復帰がなされていない頃の沖縄の代表がこの人でした。名前も痩せた四角い顔も覚えています。でも、今回、このブログで知ったことは初めて知ることばかりでした。こんなに詳しい情報は当時あまり知られていなかったことだと思います。ぜひブログを訪ねて読んでみてください。沖縄の今を知る上でも知っておくべき内容だと思いました。紹介を兼ねて、こちらでもメモ代わりに内容を少し引用してみます。
■「ウィンザー通信」さん8月25日「沖縄に脈々と受け継がれている、カメジローの『不屈』の精神」(http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/095907e298dac93eea8796e9b2fdf0a9)より:
このビデオを昨日、フェイスブックで知ることができました。
ここにこの動画を載せることができないので、文字起こしをしながら、お伝えしようと思います。
沖縄の、島ぐるみ闘争の不屈の精神。 その原点となった瀬長亀次郎さんの生き様と共に、沖縄が負わされてきた苦難や、理不尽な迫害の実態が、60年経った今と同じようなものだということを、改めて思い知らされました。
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↓以下、文字起こしはじめ
普天間基地の移設をめぐり、国に訴えられた裁判の開廷前。
沖縄県の翁長知事は、必ずこの場所に現れた。
「知事がみえました」
リーダーに、自らの思いを託す人々が作る、一体感や高揚感が包む光景。
実はこれを、かつての沖縄にあった、風景と人物に重ねる人も多い。
ここで、その人物は、歌になっていた。
♪それは昔むかしその昔 偉い偉い人がいて 島のため人のため 尽くした♪民衆の先頭に立ち、演説会を開けば、毎回何万もの人を集めた男。
「一番偉い人と思います、はい、大好きですから」
「言葉が好きでしたね、正直で。もうああいう方、いないんですね」
「カメさんとか、カメジローさんとか」
♪おしえてよ 亀次郎♪
その人物とは、瀬長亀次郎。
沖縄戦の残骸が、今も自宅周辺で見つかる、島袋善祐さんの記憶に残るのは、夜な夜な家にやってきた、アメリカ兵の姿だ。
「コレカーラハ、ミンシュシュギデース。モウセンソウハアリマーセン、ってさ、こういうのはまあ、偉い人は言うでしょ。
しかし、夜になると、どんどん女を襲いに来るさね。
ヘイ、オクサーン、ネイサーンって来るさ。
だから、私は、母さんと姉さんは床下に、女はいませーんって。
だから玄関には、男の大きな靴を置いて、女はいないっていう」
(田井等)収容所では、極度の栄養失調で、倒れる人が相次いだ。
配給する食料を、増やすよう訴えた亀次郎たちに、アメリカ兵は言い放った。
「いったい戦争に負けたのは誰なのだ。生きておればそれで良いではないか」
うるま市の一部となった旧石川市は、戦後沖縄の、政治経済の中心地として発展した。
市内のこの民家にできたのが、戦後初の行政組織、沖縄諮詢会。
その会議録に、アメリカ軍幹部(ワトキンス少佐)の発言が残っている。
『軍政府は猫で、沖縄はネズミである。猫の許す範囲しか、ネズミは遊べない』
戦争直後こそ、沖縄戦で住民を虐殺するなどした日本軍からの解放者と言われたアメリカ軍だったが、次第に、占領者の顔を見せていった。
植民地支配そのものの実態に、亀次郎はこう言った。
「戦争は終わったが、地獄は続いていた。この連中は、県民の味方では無い」
戦後初めて発刊された、うるま新報。
その社長に、亀次郎が就任した。それをきっかけに、亀次郎は、沖縄中を駆け周り、軍事占領に疑問を持つ人々との関係を強めていった。
そして、ついに立ち上がる。
1947年7月、沖縄人民党を設立。
日本が、無条件降伏の際に受け入れた、ポツダム宣言の主旨に則った綱領を掲げた。
民主主義を確立。
基本的人権を尊重し、
自主沖縄の再建を起す、というものだ。
◎そして朝鮮戦争から、サンフランシスコ講和条約、沖縄の新たな受難が始まります。
同じ頃、世界情勢は、急を告げていた。
朝鮮戦争が勃発し(1950年6月)、ソ連との冷戦構造が、より深刻化したことで、アメリカは、反共の防波堤として、沖縄を恒久的な基地にする、と宣言した。
翌1951年(9月)、サンフランシスコ講和条約で決まったのは、日本の独立と、沖縄の占領支配。
本土が、経済復興に向かおうとする中で、沖縄は取り残されたのだ。
沖縄を切り離すための環境は、徐々に整えられていた。
「琉球は、われわれの自然の国境である。
沖縄人は日本人ではない以上、アメリカの沖縄占領に対して、反対しているようなことは無いようだ」、と明言。
(沖縄新民報紙面にて・1947年7月15日付)
この2ヶ月後、昭和天皇の側近が、GHQに届けたのが、いわゆる天皇メッセージだ。
昭和天皇は、アメリカによる、沖縄の軍事占領が続くことを希望していて、それがアメリカに役立ち、日本に保護を与える、としている。
その形式は、日本に主権を残し、25年ないし50年、あるいは、それ以上の長期租借、と記されている。
そして、日本の独立と共に結ばれたのが、沖縄を基地にした元での、日米安保条約。
沖縄の軍事占領と、日本の非武装化、表裏一体のものだった。
そんな中で、事件は起きた。
その正殿の場所には、戦後、アメリカ軍が建設した、琉球大学の校舎があった。
ここで行われたのが、琉球政府創立式典(1952年4月1日)だ。
現在の県議会議員にあたる、立法院議員が、アメリカ軍への忠誠を誓う宣誓が行われた。
全員が脱帽し、直立不動の中、ただ一人、立ち上がらなかった人物がいた。
瀬長亀次郎だった。
仲松さん:
瀬長さんが、鳥打帽子をかぶったまま座っているわけですよ。
おおーっというですね、地鳴りのような声が、会場全体から上がりよったですよ。
驚きの声だったと思う。
それから感動。
アメリカに対する抵抗をね、具体的な形で表したわけですからね。
この行動は、“占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない”という、ハーグ陸戦条約を根拠にしたものだった。
◎この事件から、「アメリカにとってはね、いわゆる、瀬長の奴は好ましからざる人物、というふうに」なり、「そして、民衆と一体化していく亀治郎」と、アメリカ軍との土地をめぐる戦いが始まった。
アメリカは、地主との賃貸契約が不調に終わっても、土地を強制的に取り上げることを可能にし、その土地代の、一括払いの方針を決めた。(『土地収用令』・1953年4月発布) つまり、基地として、永久に使用することを目論んでいた。
一方、“侵略者の本性むき出しの進軍”、そう強く非難した亀治郎が先頭に立ち、立法院は、土地を守る4原則を打ち出した。(『土地を守る4原則』・土地代の一括払い反対、・適正、完全な補償、・米軍による損害の賠償、・新規土地接収反対)1954年4月のことだった。
それから半年後の、1954年、10月6日、亀治郎が突然、逮捕された。
容疑は、アメリカ軍の退去命令に従わなかった男をかくまった、とするものだった。
弁護士をつけることも妨害された亀治郎は、裁判でこう述べた。
「被告人瀬長の口を、封ずることはできるかもしれないが、虐げられた幾万大衆の口を、封ずることはできない」
「祖国復帰と土地防衛を通じて、日本の独立と平和を勝ち取るために捧げた、瀬長の生命は、大衆の中に生きている」
判決は、懲役2年。
◎「そこには、共産主義をレッテルを貼り、亀治郎を徹底的に排除しようとする、占領軍の狙いが、色濃く見えた。『土地強奪をするのに、一番邪魔になる党を潰しておかんといかんと。瀬長さんというのは、この県民闘争のですね、県民の要求の、県民の戦いのシンボルですからね。』
しかし、亀治郎のいない間に、基地は、さらに広がっていった。 普天間基地を抱える、宜野湾市伊佐浜に広がっていた、美しい田園風景。 田畑や家屋を、アメリカ軍の銃剣とブルドーザーは、一気に押しつぶして行った。住民は座り込みをして戦うも、米軍は銃を突きつけ威嚇、戦いはあっという間に終わりを告げた。」
一方、 沖縄刑務所に収監された瀬長氏は、克明な日記を綴っていた。その中にこの事件の日のこともある。1955年のその事件とは:
同じ年の9月、わずか6歳の女の子が、アメリカ兵に誘拐、乱暴され、惨殺された。
事件は、仲松さんの脳裏を離れない。
仲松さん:
6つになる女の子がね、ああいう形で、ハート軍曹に、強姦されて殺されて、唇を噛んで、草を握り締めて死んでいる、幼い女の子をね思うと、今でも、あのー、怒りの涙が、こぼれそうな感じがするんですよ。
この(犯人の)ハート軍曹は、死刑判決が出て、米国に帰されたけれども、米国でどうなったかはね、全然情報が無い。今まで誰も知らない。それが、アメリカ兵犯罪の実態だった。