◎日曜日のお昼、「そこまで言って委員会」、この日は「緊急米国特集」とかでトランプ大統領VSここ数年の歴代の大統領を並べて評価。ひな壇には「ニュース女子」でMC役の長谷川幸洋氏、沖縄の取材抜きでウソの”実情”を話した軍事評論家の井上和彦氏も。ゲストには沖縄差別発言で米国務省日本部長を首になったケビン・メア氏。(問題発言全文:http://peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=84)
◎最後に次の番組紹介があり、ブログタイトルの番組を見ることに。ちょうどお茶の時間にかかるのですぐ録画もしました。3時過ぎ両親をお茶に誘う。テレビをつけても両親が見たいような番組をやっていないので、この番組を選ぶと、入って来た母が「見てたのよ〜これ!」と言うので、3人で見ることに。こんな立派な日本人がいて、ドイツの人たちがお墓を守りその偉業を語り継ぎ、3・11の3か月後には学生たちからの募金が届いたという。
肥沼信次博士【1908年(明治41年)10月9日生まれ】
八王子市中町出身の医師・肥沼信次博士は日本医科大学を卒業後、東京帝国大学放射線医学教室に入局。1937年(昭和12年)にドイツに渡り、ベルリン大学放射線医学研究所に入所した後、東洋人として初の正教授資格を取得しました。
第2次世界大戦終戦直後の1945年(昭和20年)9月、当時発疹チフスの蔓延していたヴリーツェン市の伝染病医療センターに唯一の医師として着任し、半年間にわたる献身的な治療により、多くのドイツ人の命を救いました。
しかし、昼夜を問わない激務の末、自身も発疹チフスを発症し、1946年(昭和21年)3月8日、37歳の若さでこの世を去りました。
◎八王子市が今年「海外友好交流都市」として博士のお墓があるヴリーツェン市を紹介しています。
(↑博士についても八王子市のサイトから:http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/shimin/004/003/001/p020223.html)
ヴリーツェン市の概要
●人口 約7千人
●面積 94.54平方キロメートル
●位置 ベルリンから北東へ約70キロメートル
市庁舎は、第二次世界大戦後に伝染病医療センターとして利用されていた施設です。
肥沼博士もここで患者の治療に尽力していました。
市庁舎の入口には、博士の功績を讃える銘板が掲げられています。
聖ヨハニッターギムナジウム
小・中・高一貫校であるこの学校は、八王子高校と、平成21年に姉妹校提携しています。
東日本大震災の際には、当校が集めた義援金6,900ユーロ(約76万円)が八王子高校を通して被災地である岩手県釜石市や陸前高田市、大船渡市に送られました。
「ドイツが愛した日本人 〜佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語〜」
読売テレビ 2月5日(日)3時〜4時30分
佐々木蔵之介がドイツを巡り、ある日本人医師の感動の物語を追いかける。第2次世界大戦直後、凄惨を極めるドイツで、自らの命をかけ、悪魔の伝染病から、多くの人々を救った肥沼信次医師。ノーベル賞学者と肩を並べるほどの肥沼氏が、一転、壮絶な医療現場へ。 命をかけた診療は、後世に語り継がれ、その絆は東日本大震災へとつながる。知られざる日本人の偉業に佐々木蔵之介が迫る!!
◎1908年、町医者の後継ぎとして生まれた肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ)さんは、中学生の時、1922年11月18日、ノーベル賞を受賞したアインシュタイン博士来日の記事を新聞で読み、憧れ、ドイツ留学を夢見ます。二つの大学で医学と放射線科を学び、1937年憧れのドイツへ。学んだのはアインシュタインが教鞭をとるフンブルト大学。森鴎外や北里柴三郎も在籍していたことが。
1939年、肥沼さん31歳の時、9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻。第二次世界大戦勃発。この時ヒットラーはドイツの食料と資源確保のため東方ポーランドを『東方生存権』と呼ぶ。(今の中国のやり方と似ています)
肥沼さんは、大学内で、日本人の江戸時代の学者たちやのちに日本初のノーベル賞を受賞する湯川秀樹さんたちの名前を挙げて、ヒトラーの人種差別政策に反して日本の優秀さをアピールするスピーチをしています。また同大医学部の教授資格も取得。
◎ここで、案内人の佐々木蔵之介さんは「ザクセンハウゼン記念施設・博物館」を訪ねます。ここは、有名な「労働(すれば)自由(になれる)」の言葉があるユダヤ人収容所で、「ドイツにあった全収容施設を統括していました。塀の前の鉄条網には強い電流が走っていて、絶望した人が飛び込んで自殺したことも。様々な大量殺りくの実験を行いました。」
(写真→)「ここでは、ユダヤ人を壁に沿って並ばせました。人の後頭部に当たるところの壁には穴が開いていて、SS隊員がピストルで一斉に頭を撃った。銃声は蓄音機で音楽をかけてかき消しました」と淡々と説明されます。佐々木さん「自らが犯した虐殺の歴史を包み隠さず公開する、同じ過ちは繰り返さない、強い意志を感じました」。
◎1944年7月(と言えば私が生まれた年)肥沼さんが描いた家族への手紙;「世界戦がその峻烈さを極め最後の決勝負に真近にならんとするとき皆々様ご健康のこととお察しいたします。伯林(ベルリン)は昨年の終わりごろからの空爆で瀕死のところまで大体大正大震災大火後の状態であると考えられれば間違いないです。小生は尚、部分的には伯林の研究所に留まり、小生の研究をやる一方、医学部理学部学生の学位論文作製の面倒を見てやっている次第です。」
◎1945年、ベルリン総攻撃。4月13日、在独日本大使館からはベルリン脱出を促す。大使館の帰国者名簿に肥沼の名前もある。翌、4月14日午後3時閉館引き上げ。肥沼は姿を現さず。
◎その後の肥沼さんの消息は不明。1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。その年の12月14日の朝日新聞の尋ね人のコーナーに、「コエヌマ・ノブツグ(漢字不明)」として「チフス大流行中ブリーツェンの医療センター長として献身的に努力、ついにその病に倒れ、1946年8月5日客死。ヴリーツェンの人々は同医師のために立派な墓を建て今も献花が絶えません」という記事が掲載され、それがきっかけで1994年弟の栄治さんが見つかり、同市を訪問お墓参りを。
◎ドイツに残ることを選んだ肥沼さんは、戦争で夫を亡くしたシュナイダーさんとその娘クリステルの3人でベルリンを離れて疎開した。
ヴリーツェンより30km離れたエーヴェルスヴァルデという町で3人は暮らしていた。
そこでは肥沼さんは敵国の人間としてソ連軍による監視下にあった。
当時のヴリーツェンの町は爆撃を受けて壊滅状態の焼け野原。虱(しらみ)を媒介にして悪魔の伝染病と呼ばれた発疹チフスが蔓延。
1985年9月のある日、肥沼さんはソ連軍司令部に呼び出され、ヴリーツェン伝染病センター(現市庁舎)の所長に任命される。薬も注射も医療器具も満足にない劣悪な状況下、肥沼さんは女学生を看護婦に育てながら精いっぱいの診療を行う。時には、往復に一週間を要するベルリンまで薬を手に入れるために何回も出かけることも。「逃げることもできたかもしれないが、研究者というより医者だったのでは。医者として命を賭して全うしようとしたのでは…」と佐々木さん。
その甲斐あって多くの人々が病から快方に向かい助かった。肥沼さん自身は、二人が待つ、歩いて10分ほどのアパートの二階の一室に帰ることは少なく、診療を終えて帰っても服を着たままソファーに倒れこむような日々だった。「患者に尽くして自分の命は顧みなかった、見ていて苦しかった」と、当時15歳で家政婦をしていたエステルさんが証言します。
1986年2月、ついに肥沼さん自らが発疹チフスに感染。しかし治療薬を拒み「患者に使うように」と看護婦たちには指示していた。死の床で「故郷に帰って桜をもう一度見たい。2人にも桜を見せてあげたかった」という言葉を遺してシュナイダーさんや看護婦に見守られる中、37歳でこの世を去ります。1946年3月8日のことです。
◎ブリーツェンでの肥沼さんの戦後の消息を探し当てたのは郷土資料館の館長ラインハルト・シュモーク博士だった。40年ほど前のある時お墓を見つけた。それは看護師たちが埋葬した肥沼さんのお墓だった。
ヴリーツェンの町の人々は肥沼さんを永遠に忘れないと、お墓を作り、献花を絶やさず、子や孫に代々語り継いできました。
冷戦が終わり、ドイツ統一後の1992年、肥沼さんにヴリーツェンの名誉市民の称号を授与。
探し当てた弟の栄治さんから贈られた桜の木が市内に植えられ、その桜は肥沼さんの墓所にも。
広場には記念碑も建てられ、「肥沼記念杯」というスポーツ大会も開かれるようになった。
また学校の授業でもその偉業が教えられています。佐々木さんもお墓を訪ねました。
佐々木さんが話を聞いたのは、市庁舎が病院代わりだったころ何度も見舞いに友人を訪ね肥沼さんと親しく話したというクルト・ミュラー(88歳)さん。
「あそこは元々病院ではない。ベッドはなく床に藁を強いていた。薬も十分なく注射も足りてない。最低限の器具を使って治療に当たっていた。こんな状況で肥沼さんはすべてを成し遂げたのです。」どんな人ですか?と問われて、「彼はとても前向きで陽気な人でした。ただ時々、問題が積み重なってストレスがたまると拳(こぶし)を握りしめてクソ!クソ!クソ!と言っていました。戦争が終わって初めて迎えた大晦日に皆で乾杯しました。これが先生にとって最後の大晦日になってしまった。神様はあのような時代に素晴らしい医者を与えてくださいました。心から感謝しています。」
次に訪ねたのは、カール・メッタ(75歳)さん。肥沼さんに“お酒(ドイツの焼酎)に卵を入れて飲みなさい”と言われ、そのおかげで命が助かったというのを聞いて、佐々木蔵之介さんは、”まさに日本の玉子酒じゃないですか”と感じたとか。
孫の小学生のルイス君は、学校の授業でヒーローについて書きなさいと言われて、迷わず肥沼さんのことを書いた。「だって、肥沼さんは僕にとっておじいちゃんの命を助けてくれたヒーローだから、先生がいなかったら、お爺ちゃんも今ここにいないし、僕も生まれていなかった」。
◎最後に、佐々木さんは、3・11の3か月後、生徒たちが自発的に義援金を集め日本に送ったという学校を訪ねる。
ウヴェ・ジーベルト市長は、「戦争の時に日本人が医者として伝染病医療センターの所長をやっていたということは普通考えられないことで、こんなことができる人間はほかに考えられない。この事実をブリーツェンの市民は永遠に忘れません」と語っています。市長の言葉通り、肥沼さんの偉業は生徒たちに教えられ、その精神は受け継がれています。
最後に、戦後の何もない劣悪な環境の中に一人の日本人が命がけで人々の命を救った、そのことを忘れないで伝え続ける、そのことが絆を生む。ホロコーストも含めて、そういうことを伝え続けることが大切なんだと…佐々木蔵之介さんの言葉です。
◎肥沼さんの足跡をたどってドイツの都市を巡る佐々木蔵之介さん、何故この仕事を引き受けたのか、また、昨年12月、収録に訪れたクリスマスマーケットの2日後にテロが、佐々木さんが語る番組への思いなどを番組紹介記事から:(引用元:http://www.asahi.com/and_w/interest/entertainment/CORI2084663.html)
蔵之介、命の尊さ実感した独取材
佐々木蔵之介 (C)ORICON NewS inc.
俳優・佐々木蔵之介が出演する読売テレビ・日本テレビ系『ドイツが愛した日本人 〜佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語〜』が、5日の午後3時より放送される。第二次世界大戦のさなか、ドイツの地方都市・ヴリーツェンで自らの命と引換えに人々を救い続けた日本人医師・肥沼信次さんの足跡を追うドキュメンタリー番組。12月中旬には実際に現地に足を運んだ佐々木だったが、ベルリン中心部のカイザー・ヴィルヘルム記念教会では訪れた二日後にテロ事件が発生。命の重みを強く実感することとなったドイツロケを振り返った。(【写真】ドイツロケを振り返った佐々木蔵之介)
肥沼さんは第二次世界大戦前夜の1937年にドイツに渡り、名門・フンボルト大学に留学。戦況が悪化する中、その功績を認められアジア人初の教授資格を得るかと思われたが、39年に開戦した第二次世界大戦の戦況が悪化し、その夢は叶うことはなかった。大使館から日本人に帰国を促す指示が出る中、肥沼さんはドイツに残り、北東部のポーランドとの国境に近い古都・ヴリーツェンへ。十分な薬もない中、伝染病の発疹チフスに苦しむ人々の治療にあたり続けた。
佐々木はドイツ訪問前、ナチス台頭の時代に同性愛者迫害をテーマにした舞台『BENTO ベント』に主演していたこともあり、「肥沼さんの足跡はぜひたどってみたいし、とても興味があったので、すぐに引き受けました」とオファーを快諾。肥沼さんが歩んだ道のりを追ってヴリーツェンやブランデンブルク門、ベルリンの壁などを訪れた。
そして当時、ドイツで一番有名だというクリスマスマーケットが開催されていたカイザー・ヴィルヘルム記念教会周辺でロケを行った二日後の晩、最後のカットを撮り終え現地でスタッフとともに食事をしていた佐々木の元に舞い込んだのは、同所で発生したテロ事件の一報だった。
「クリスマスマーケットをあちこちでやっていて、本当にきれいなんですよ。マーケットを取材した日の夜、日本の大使館に行きまして、お話をさせていただいた。その時に『人混みは気をつけて』という話もして…その翌々日ですね。ブランデンブルク門で最後のカットを撮って、夜の食事に行った時にコーディネーターが『あっ、テロがあった』と…。『あそこだ。どういう事だ』と…」。ちょうど佐々木が歩いた場所の通りを挟んだ向かい側にトラックが突っ込んだ。
「翌日、帰路のフライトはお昼出発だったので、朝、起きてもう一度そこに行きました。警察、中継車が来ていて、各国からの報道陣もいっぱいいました。あんなに楽しかった所でこんな残念な事が起きるなんて…。なんでこんな事で人の命が…と思いました。悔しいです」と無念さをにじませた。
肥沼さんの存在を知り、墓を守り続ける現地の人とふれあい、その偉業を確かめつつも間近でテロの恐怖を実感した佐々木。「僕がここで何か言うことでもないですけど、番組を見ていただいたら、命の大切さ、命の尊さは感じていただけるのではないだろうかと思います」と力を込めていた。
◎肥沼さんの足跡をたどる佐々木さんはドイツの首都ベルリンへ。
そこでブランデンブルク門や東西ドイツ分断の象徴ベルリンの壁をめぐります。
私は1996年、神奈川のXさんとベルリンフィルが目的でベルリン一泊の経験があります。ホテルの受付の台の高かったこと、建物すべてが立派で大きかったことが印象に残っています。
そして一番驚いたのは、地下道から仰ぎ見たカイザーウィルヘルム教会の屋根でした。都心の真ん中に戦争で爆撃を受けた教会がそのまま残っている異様さ! 原爆ドームだけではないんだと思いましたし、町中にそのままあるのは、ある意味、広島・長崎以上だと思いました。戦争を記憶することにかけてはドイツの方が上だとそう思いました。
ベルリンの真ん中を流れるシュプレー川の東側地域、当時の面影を残す大聖堂や世界遺産の博物館島へ佐々木さんも足を運んでいたので、懐かしく見ました。Eさんは職場の人に頼まれたからと壁の欠片を買っていました。6,7年後のそのころでも、探せばまだ売ってる人が道端にいました。
ブランデンブルク門からベルリンフィルハーモニーホールのあたりは工事中「Under Construction」の看板が至る所に出ていてひっくり返るようでした。
◎佐々木蔵之介さんも番組の中で言っていましたが、第二次大戦の負の遺産も包み隠さず公開したり、外国人である日本人医師の戦中戦後の偉業を称えて市役所の地下の診療していた部屋をそのまま残し、当時の粗末な医療器具を展示したり、異国の医師に助けられた事実を学校で教え、日本について学習し続け、日本人医師の博愛・不屈の精神までも学び続ける。あの戦争を忘れない努力に本当に頭が下がります。
(写真は番組の写真をカメラで撮ったものと、それぞれのHPからのコピー、そしてカイザーウィルヘルム教会の写真はネットからのコピー)