「200万円で売却!」と「猫バス」と「ヒトラーシリーズ」と『後藤田正晴の「反戦思想」』

(今日、「テロ等準備罪(共謀罪)」に次いで2つめです)

民進党の国会議員が昨日豊中の安倍記念小学校の建設現場を視察。国会では玉木議員が追及。
4月開校なのに設置認可が下りてない!とか、たった200万円で売却したとか!?

玉木雄一郎
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‏@tamakiyuichiro
森友学園への国有地の売却について国会で質問なんと国にはたった200万円しか入らない契約だと政府も認めました同じ面積の隣地の価格は14億円もするのに。しかも4月1日開校なのに現時点で設置認可がおりていないことも明らかになりました。

◎そして、塚本幼稚園の通園バスはこんなにかわいい猫バス!
(引用元:「まるこ姫の独り言」http://jxd12569and.cocolog-nifty.com/raihu/2017/02/200-2771.html

<猫バス>


塚本幼稚園の通園バスは、こんなのだそうだ。


ラクションを押すと「ニャン」と泣くんだそう。
これを見た子供達は”あれに乗りたい”と親にせがむのだそう。
そりゃあ、そうでしょう。可愛いもん。。。。


誰だって、ああいった物には弱いし、自分だって目の前に猫バスが来て、
ラクションがニャンだったら、絶対乗りたいと思う。
ものすごい魅力的だ。


幼稚園側は実に子供の欲しがるものを知っている。
親は中に入ったらギョッとするとも知らず。。。

ヒトラーシリーズ、今回は意外や意外、総統閣下がまともバージョンです。ところどころ日本語と一致?するところが面白い。

内田樹さんがリツイート
松井計 ‏@matsuikei 7時間
総統閣下は国有地の格安払い下げにお怒りです

まともなことを言う総統閣下シリーズ

春一番が吹いた19日の月曜日の大阪でしたが、母の俳句の日でした。ところで、今年のお年玉年賀はがきのお年玉切手のデザインがとてもかわいいです。母は秋の誕生日で96歳の年女。俳句と切手を並べてみます。


風光る誰に会うともなく歩く



あすへの屈伸体操うめの花



精出すこといっぱいあって草仰ぐ



◎先月の記事、捨てきれず置いていたものですが、張り付けておきます。今、自民党に後藤田さんがおられたらと切に思います。

一期一会・私が出会った「昭和の怪物」 /1 後藤田正晴の「反戦思想」=保阪正康
2017年1月25日
Texts by サンデー毎日


 今年から毎月第4週には、保阪正康氏の「私が出会った『昭和の怪物』」を掲載する。第1回は、戦争への警戒心を失いつつある現在の政治を見るにつけ、保阪氏が「今もしこの人がいれば」と思うという、元内閣官房長官後藤田正晴氏。その強固な「反戦思想」について、思いの丈を綴る。(一部敬称略)

 この四、五年、後藤田正晴氏が存命ならば、となんども思った。集団的自衛権、安保関連法、秘密保護法などの政治日程が微妙な時期に達するほど、後藤田の卓見にふれたい思いをもった。その口癖である「私は腰を抜かしたよ」という言を聞きたかった。

 とくに「私」を、「わしゃあ」というイントネーションで話すのだが、その口ぶりは毒がこもっていると自覚しているようでもあった。
 いうまでもなく後藤田は護憲の政治家である。私はかつて(平成の初め)一年半ほど月に二回、後藤田の議員会館の部屋、自宅、それに個人事務所を訪ねて取材を続け、この官僚政治家の評伝を書いたことがある(『後藤田正晴―異色官僚政治家の軌跡』)。刊行は平成五(一九九三)年であった。この刊行時に小さなもめごとがあり、それを克服してからはきわめて胸襟を開いて話せる間柄になった。とくに予定もなく事務所を訪ねても時間を割いてくれるようになり、後藤田も歴史好きのところがあり、二人でなんどか歴史談議を交わした。そんなときに後藤田からよく本音を聞かされた。
「今日、国会を歩いていると社会党の女性議員数人とすれ違ったよ。そしたら彼女たち、わしに何と言ったと思う。先生、わが党の委員長になってくださいよ。先生は護憲派なんだから……」
 と後藤田は苦笑とも微笑ともいえぬ表情でつぶやいた。またあるときは、「今日の総務会でわしゃあ腰を抜かしたよ」とあきれた表情で洩(も)らしたこともあった。西日本のある代議士の名を挙げ、「君ぐらいの年齢だと思うんだが……」と言って次のように語ったのである。
我々の世代には戦争責任はない。戦争責任は戦争を行った世代にあり、我々はそんな責任に囚(とら)われることはない
 後藤田が、腰を抜かしたと驚きの表現で語ったのは、こんな歴史観の持ち主が我が党にもいるんだなあと改めて確認したからである。後藤田の予言どおり、というべきだが、その後、この代議士の政治・歴史への発言を見ていると、いわゆるタカ派の弁を常に代弁していて、私には興味深かったのである。


 なぜ後藤田は護憲だったのか。それは戦場に赴いた世代の共通の感情を土台にしていた。前述の書に、私は、後藤田の戦争観を次のように書いた。
後藤田には後藤田なりの戦争観があった。戦争のあの愚劣さは、決してくり返してはならない。もう二度とあのような体験はしたくはない、との覚悟を固めていた。後藤田と会話を交わすと、そうした覚悟がはっきりと見てとれる
 わしの目の黒いうちは憲法改正は許さない、との信念も語っていた軍事が政治のコントロールを踏み外して暴走を続けるなら、とんでもない事態になる、となんども口にしていた。中曽根内閣の官房長官として、後藤田はこの内閣の軍事への傾斜をたしなめる側にいて、その種の発言を続けた。たとえばPKOへの自衛隊出動にも一定の歯止めをかけて、軍事を政治のコントロール下に置くことを実現させている。


わしは自伝や評伝なんか信用しとらん

 しかし官房長官としての後藤田が、日本の国防方針や国際社会での軍事協力について、孤塁を守る形で自説を貫いたのは昭和六十二年十月のことであった。そのころイラン・イラク戦争によってペルシャ湾にはイランが敷設した機雷が無数にあり、そのために各国のタンカー船の触雷事故が相次いだ。しかも、この海域を遊弋(ゆうよく)中のアメリカ軍艇隊にイランが攻撃を仕かけることもあった。するとアメリカ政府は、日本政府に具体的な行動をとってほしいと要求してきたのである。そこでペルシャ湾の安全航行確保と称して、中曽根首相や外務省は海上自衛隊の機雷掃海艇や海上保安庁の巡視船の派遣などを企図したが、それはむろん国際社会での政治的発言の強化を考えたためであった。「日本を不沈空母にする」との中曽根発言の延長にある政策であった。
 こうした動きに後藤田は猛然と反発した。「交戦海域に海上自衛隊を派遣することは許されるというのか」との考えを明かしたのである
 私の取材でも、後藤田はこのときの感情をなかなか語らなかった。当時の新聞によると、「どのような形であれ、海外に出て武力行使につながる可能性のある対応はとるべきではない。非軍事の分野に限るべきだ」と中曽根に詰めよったとある。これはのちに後藤田がこっそり洩らしたのだが、もし閣議海上自衛隊の派遣などの法案が提出されても、私は決して署名しない、と伝えたというのである。


 こういう後藤田の態度を、私は集団的自衛権論議のときになんども思い出したこの時代にはひとりの「後藤田」もいないのか、というのが私のつぶやきであった。戦争を知らない世代になれば自衛隊派遣が当然という時代になるだろうな、とも話していて、私もその憂いを共にしたのである。そういう共有感覚があったためか、前述の総務会での中堅代議士の暴言(戦争責任なんか知らないよといわんばかりの内容)にあきれたとの言を聞かされたのであった。



 後藤田は東京帝国大学法学部を卒業して、高等文官試験に合格し内務省に入省している(昭和十四年)。一年ほど内務省に身を置いたのち徴用され、昭和十五年四月に二等兵で入隊している。その後、陸軍経理学校で学び主計将校として台湾歩兵第二連隊、そして台湾司令部に将校として身を置いた。太平洋戦争の期間にはこの司令部に在籍していて、司令官に仕えていた。
 そのころの記憶を質(ただ)しているときに、後藤田は「戦争末期になると中国に駐屯していた部隊が台湾を経て南方に投入されていったが、中国にいた部隊はどうしてあれほど荒っぽくなるのかと内心で不思議に思っていたよ」と語った。その荒っぽさも具体的に語ったが、後藤田によれば台湾では暴行事件なども起こったというのだ。
 私が出版社の役員と後藤田を訪ねて、「あなたは警察庁長官まで上りつめたのに、その個人的心情は戦争に対する怒りが深く、PKOへの取り組みや海上自衛隊の派遣反対に対する信念がどこから生まれたのかそれを評伝という形で書きたい。取材に協力してほしい」と申し出たときに、後藤田はにべもなく、「わしは自伝や評伝なんか信用しとらんよ。そんなもの書いてほしくない」と首を横に振った。再三申し出るも態度は変わらない。

 ところが雑談の折に、台湾司令部の話になった。私は、蒋介石の次男蒋緯国を台北の三軍大学の学長室でなんどか取材し、日中戦争の内幕を確かめた体験を持つ。蒋緯国は自らの部屋で、「この建物はあなたの国の台湾司令部だったところですよ。この部屋に司令官がいたんでしょうね」と皮肉な表情になった。その話を紹介しながらかつての台湾司令部の現状をなにげなく語った。後藤田は私に興味をもったらしく、すぐに秘書の河野さんを呼んで、「彼の取材を受けるから日程を組んでくれ」と命じた。その決断に私は驚いた。


僕はこんなやわな人間ではない

 一年半近く、月に二回会って話を聞くのは楽しいひとときだった。自民党の副総裁という立場だったと思うが、私の質問にはすべて丁寧に答えてくれた。東京・広尾にある自宅も訪ねたことがあり、夫人とも顔見知りになった。そして私は千枚近くの評伝を書いたのである。
 後藤田から事前に読ませてほしいと言われ、私はその胸中を描写した部分は、諒解(りようかい)も必要だったので見せた。しかしそれ以外は事前に見せなかった。後藤田は新聞はともかく、雑誌や書籍などの自らに関わる原稿は事前に読んでいるらしく、見るのを当然と考えている節もあった。しかし私はその要求を全面的には受けいれなかったのである。
 単行本が刊行されたのは平成五年九月で、その日の夕方、後藤田の議員会館に届けた。翌日の早朝(午前六時過ぎ)、後藤田から電話が入った。激高している口ぶりである。「君、なんだこの本は。文学的に書きすぎている。僕はこんなにやわな人間ではない」。幾つか書き直してくれ、というのであった。私は、先生は取材に応じて書く側に任せた以上、どのような本になろうともそれは仕方のないことだと応じ、平行線のやりとりを続けた。後藤田は自らの「カミソリ」とか「強いイメージ」が崩れているのを恐れていることがわかった。電話は気まずい感じで終わったが、後藤田とはこれで終わりか、という思いを持った。
 確かにこの評伝の冒頭は、「寂として物音ひとつしない」という書きだしで、徳島の剣山地の描写から入り、ここで父の遺体を町の病院から自宅に運ぶ様子を七歳の少年がどのように見守ったか、その心情を説き明かした。後藤田はそういう描写自体が文学的だというのである。
 一週間後、後藤田のパーティーが開かれる予定になっていた。私も出席の返事をだしている。気が重く、しかし出席だけはと考えて顔をだした。会場に入ると、夫人が近づいてきて、「保阪さん、本当にありがとう。血も涙もないと思われている後藤田を人間的に書いていただいてありがとう」となんども頭を下げる。私も恐縮してしまった。会場では後藤田が近づいてきて、右手を上げて、「やあ」といつものポーズをとる。後藤田は夫人の説得を受けいれたようであった。私が後藤田と自由に、そして後藤田も私のどのような言にも耳を傾ける関係になったのはこのときからであった。



 あるとき帰宅すると、妻が涙目になっている。後藤田から私がいるかと電話があり、「不在」と告げると、妻に「保阪君のような仕事は奥さんの支援がなければ続かないはずだ」と励ましたというのだ。保阪君の仕事は奥さんとの合作だと、私は思っているとまで言ったそうだ後藤田はこういう目くばりが確かにできるタイプだったのである


 後日談になるが、後藤田は田中角栄元首相の後継者のような役割で、中国との友好国体の役職を務めていた。その折、二〇〇〇年ごろだが、後藤田さんのことは中国の要人もあまり知らないので、何か評伝のような書籍があるなら翻訳したい、との申し出があったそうだ。後藤田は私の評伝を推し、そしてこの書は新華社の出版部から刊行された。中国側から私のもとに、原作者として出版関係の知人、友人を交えて、中国への招待を受けた。そのときに私は、「共産主義に批判的なのだが、それでもいいだろうか」と後藤田に相談した。次のように答えたのが今も印象に残っている。
共産主義に賛成とか反対で中国を見ていたら、国際社会はわからないよ。これからは、そんな時代ではなくなる。とにかくいちど行ってみてくるといい」


歴史の中に解答はある」が信念

 後藤田の机の上には、いつも政治学、文明論、そして歴史書が必ず五、六冊は積んであった。それらを毎日丁寧に読み進めるというのだが、ときに私も読んだ書があると、二人で読書論を交わしたりもした。後藤田は知的な興味を失わないように努めていた。アメリカの政治学者より、ヨーロッパの政治学者の書籍のほうが内容が濃いように思う。それだけ歴史の重みというのは異なっているからだろうねと、くり返し語っていたのが印象的であった。
 後藤田は、政治家として難問にぶつかると必ず歴史上の出来事を想定して考えを煮つめていくようであった。「歴史の中に解答はある」というのが信念であったのかもしれない。あるとき電話がかかってきて、第一次世界大戦終結時(一九一八年)に、日本ではどういう形で国内法的な結着がついたか知りたいのだが、と言い、参謀本部や軍令部はどういう法律のもとで軍事上の動きを止めたのか、それを調べているという。すでに現役の代議士でないのに、そういうケーススタディーを学んでいることに驚いた。
 私は防衛庁(省)の防衛研修所戦史室に赴いて、そのようなケースについて調べた。実はそのことは私にもおおいに勉強になったのである。
 後藤田は、政府の政治行動がどのように過去の英知を生かすべきかを考えていたのである。そういう生真面目な元政治家をもっていないのは現代日本の不幸かもしれないと思う。 後藤田発言の重さに、私は改めて思いを馳(は)せ続けているのである。
(ノンフィクション作家・評論家 保阪正康
サンデー毎日2月5日号から)