◆最高統帥機関・大本営 覆い隠された戦場の現実:劣勢は認めず、嘘の上奏まで
大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していました。
「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する公算は極めて低い』と語った。
東條大将は即座に彼の発言を制止し話題を変えた。
わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。
秦中将は報告を半分ほどで終えた。」(西浦進大佐の証言より)
◎翌日の5月16日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠す。
「現況においては幸じて、常続補給をなし得る状況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹努力するを必要と存じます」
◇ビルマ方面軍 後勝参謀の証言:全滅してもいいからやれ・・・
インパール作戦にかかわった現地軍の参謀はこの後の陸軍の空気をこう語っている:「(たとえ)牟田口さんが作戦をもうやめたいと思ってもやめられない。方面軍司令部としてもやめようと思ってもやめられないという状態が起こったわけです。もう(作戦)変更の余地ないわけです。どんな犠牲を払ってもええちゅうんですから。極端に言えば全滅してもいいから取れという雰囲気。これでもうインパールの運命は勝負ありになったわけです」
◆遥かなるインパール 総突撃の果てに…:作戦実施中に指揮官3人を更迭する異常事態
作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。
牟田口司令官は苦戦の原因は現場の指揮官にあるとして3人の師団長を次々と更迭。
作戦中に全ての師団長を更迭するという異常な事態でした。
牟田口司令官は国境近くに司令部を移しました。
斎藤少尉が日誌に書き記します:
「私たちの朝は道路上の兵隊の死体仕分けから始まります。
司令部では毎朝牟田口司令官の戦勝祈願の祝詞から始まります。
『インパールを落とさせ賜え』の神がかりでした。」
(齋藤博圀少尉の回想録より)
さらに、牟田口司令官は自ら最前線に赴きました。
南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮をとったのです。
「全兵力を動員し軍戦闘指令所を最前線まで移動させることで戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのである」(調書より)
しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りでした。
「我々は日本軍の補給線が脆弱になったところで叩くと決めていた。敵が雨期(モンスーン)までにインパールを占拠できなければ補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた。」
インパールまで15キロ。第33師団はこの丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようとしました。日本軍の多くの血が流れたことからレッドヒルと呼ばれています。作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていませんでした。牟田口司令官は残存兵力を集め100メートルでも前に進めと総突撃を指示し続けました。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たち。1週間あまりで少なくとも800人が命を落としました
◆追撃 飢え 疫病… 地獄の撤退戦:”白骨街道”と”解任・帰国”の司令官
武器も弾薬もない中で追い詰められた兵士たち、現地の人は語る「木や竹を叩いて機関銃のような音を作っていた。その音によってイギリス軍に多くの兵士がいるように見せかけていた。」
「丘の上のイギリス軍を目指して日本兵は麓から頂上に突撃していった」と語る人があれば、引き金部分に手をかけながら銃を撃つ格好をしたり、「日本の遺族が来た時に遺品を渡せるように大切に取ってあるんだ」という男性も。みんな、80代、90代。
◎血と泥がこびりついた戦陣日記。ここで戦死した山川さん(28歳)。兵士の功績や戦死した状況を記録する任務に就いていた。
「砲撃を受け『クヤシイ』と言いつつ戦死す」「負傷後、『誰か来てくれ来てくれ』とよぶ。仲間の所に赴き、2人同壕中にて戦死す。」
高雄さん「最後にひと暴れしておしまいになっていく。いわゆる玉砕だな。一つの統制のとれたあれじゃなく、何か無茶苦茶っていうような感じを受けたね、最後のころは、無茶だと。」
鈴木さん「かわいそうだっつうか、『天皇陛下万歳』という人は少ないですから。」「大概お母さんの名前。その次は、お母さん居ない人はお父さんの名前を呼んで死んでいきますね。」
牟田口司令官の指揮のもと、レッドヒルに突撃した第3師団第214連隊小口和二(96)元上等兵は仏壇に手を合わせ写真に語り掛けます。「おい、元気か〜、俺は先に帰ってるで〜」と一人一人の名前を呼びながら、「毎日お参りしてるから。死んだなんて思ってないよ。」
小口さんの部隊で生き残ったのは40人余り、460人が戦死。「あの顔がね〜、痛い、痛いって顔が忘れられない」「おい、小口、やられたって、思い出しちゃって涙出します。」
◎1944年6月。作戦開始から3か月。
インド・ビルマ国境地帯は日本軍が恐れていた雨期に。
この時期の降水量を解析すると、ひと月の降水量が1000ミリを超えていたことがわかる。
30年に一度の大雨だった。1万人近くが命を落とした。
◆遅れた作戦中止 判断を避けた司令官たち:兵隊の命は考慮されず
1944年6月、インド・ビルマ国境地帯は雨期に入っていました。この地方の降水量は世界一と言われています。作戦開始から3か月で1万人近くが命を落としていたとみられます。司令官たちはそれでも作戦中止を判断しませんでした。
6月5日、牟田口司令官のもとに河辺司令官が訪れました。お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始しました。「私は作戦が成功するかどうかは疑わしいと包み隠さず報告したいという突然の衝動を覚えたが私の良識がそのような重大な報告をしようとする私自身を制止した」
「私たちは互いに胸の内を伝えず作戦の成功へ向かうために必死に努力するよう励まし合った。なぜならば任務の遂行が軍の絶対原理だったからである」(連合軍の調書より)
◎第33師団は激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくなれました。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路。イギリス軍の追撃はその間執拗に続きました。
撤退路で日本兵の世話をしたというゴー・ヌアンさん「みんなひどい下痢で歩けなかった」「葉っぱでお尻を拭いてあげた」「世話をしている兵士が毎日死ぬのがとても怖かった」
◎腐敗が進む死体に群がる大量のウジやハエ。凄惨な光景はイギリス軍の兵士の記憶にも焼き付いていました「数えきれないほどの日本兵が自殺を図って崖へ飛び込み死んでいきました。あのたくさんの遺体は長い間放置されたに違いありません。」(マルコム・コノリーさん)
持田菊太郎(96)さんは、撤退中にイギリス軍の迎撃を受け、足に大けがを負い、戦友を置き去りにせざるを得なかったと。
「一緒に連れて行ってくれと言ったわけですよ。あゝいいよと言ったんだけど、5m歩いちゃ休み、これじゃね、こっちが持たないから」「あの、こんなことしたら、こっちが参っちゃうんだ。だから、悪いけどよ、俺たちはまだこっちにね・・・」「悪いことになって申し訳なかったって・・・・」「もう、本当にね、いつもね・・・」
自らの運命を呪った兵士たちは撤退路を「白骨街道」と呼びました。
雨が遺体の腐敗を進め、10日間程で骨にしたと言います。
◎大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月が経っていました。
インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていきました。
戦死者の6割が作戦中止後に命を落としていたのです。
赤は作戦中の死者、青は中止後の死者。(つづく)