昨日は草津の白根山の噴火に驚きました。3000年間動きがなかったというのにマグマ水蒸気噴火とか。100いくつかある火山みんな警戒が必要ということになりますね。火山で生まれた日本列島に住むのだから仕方がないと言えば仕方がない。火山の恩恵もたくさん受けているのだから噴火すれば逃げるしかない。後はいかに予知できるかしかありませんが・・・厳冬期の火攻め?自然は甘くありませんね。
ボケの花が咲く先週20日の土曜日は、今年最初の古典講読、平家物語の日でした。毎月第一土曜日ですが、1月だけは幕の内なので変更でした。その前の週になっていれば佐藤しのぶさんは聞けないところでした。
さて、先生の最初の言葉は、「トランプさん、1年、もちましたね〜」でした。「トランプさんでアメリカは大変、そのことを思えば日本は安倍さんで…(そのあとは聞き取れず)いろいろありましたね〜、やっぱり相撲が一番だったかな。大阪出身なので豪栄道を応援しているけど、もう一つ、強い!!って感じでもないよね。でも、横綱にならずに大関で長くやってるというのがいいのかもしれませんね〜。さて、平家は、いよいよ滅亡一途。今日は壇ノ浦です」ということで、「平家物語巻(まき)十一 鶏合 壇浦合戦(とりあわせ だんのうらかっせん)」です。
昨年の12月、忘年会兼ねてのお茶会の日に、「鶏合(とりあわせ)」の部分は済ませました。
九郎大夫判官義経は周防(山口県)へ、平家は長門の国引く島に到着。熊野別当湛増は、平家方についたものか源氏についたものか迷って、最後は闘鶏で決着。7羽の赤と白の鶏を戦わせたところ、赤い鶏が一羽も勝たずに逃げたので、源氏へ加わった。他にも源氏につくものがあって、源氏は三千余艘、平家の船は千余艘となった。
さて、元暦二年三月廿四日の卯の剋(1187年の四月下旬の午前六時)、豊前の国の門司と赤間の関で、源平の矢合わせと定めた。そのひ、判官と梶原が危うく同士討ちになりかけた。この二人、相性が悪いのか、主の義経が大人げないのか家来の梶原が義経を馬鹿にしているのか、以前にも大阪から船で平家を追走するときに衝突しています。(「逆櫓」:http://d.hatena.ne.jp/cangael/20170903/1504405149)
今回は先陣争いです。
「今日の先陣をば景時にたび候へ」と景時が言えば、判官は「義経がなくはこそ」義経がいないのならともかく、いるんだからと譲らず。「大将軍が出るのはよろしくない」と景時が言えば、義経は「大将軍は鎌倉の頼朝で、私は奉行の身、みんなと同じ」というので、景時「天性この殿は侍の主にはなり難し」とつぶやいた。これを聞いた判官、「日本一の大バカ者」と言って、二人が太刀に手をかけて一触即発。
景時には三人の息子たちが寄り集まる。判官の周りには武蔵坊弁慶を始め一人当千の兵者(つわもの)どもが取り巻いた。けれども判官には三浦介、梶原には土肥次郎がしがみついて、「源平激突の重大事の前に同士討ちになれば、平家がたに力が付く。それに、まわりまわって鎌倉殿の耳に入れば穏やかならず」と言えば、判官は冷静に。梶原もそれ以上は進めず。「それよりして梶原、判官をにくみそめて、つひに讒言(ざんげん)してうしなひけるとぞきこえし」(このことがあってから、梶原は判官を憎み始め、とうとう讒言して判官を滅ぼしたということであった。)恨みをかうと恐ろしいですね。やはり、義経の側にも人の上に立つ器量がなかったのかも・・・
いよいよ源平両軍が対陣する。両軍の間は卅余町(三キロ)ある。潮の流れのせいで、源氏は押し戻されがちになり、平家は潮に乗って進んでくる。その勢いに助けられ、平家軍は士気が高い。両軍が鬨の声を上げると、その声は「上は梵天までもきこえ、下は海竜神もおどろく」ほど。新中納言知盛が大声で味方の軍勢に下知をすれば、悪七兵衛景清は義経を小脇に挟んで海に投げ入れてくれようと息をあげる。
そんな中、知盛は安波民部重能(しげよし)が心変わり(裏切)したのではないかと疑い、大臣殿(おおいどの=兄の宗盛)に「頭(こうべ)をはねたい」と申すと「確たる証拠もないのに」と反対され、みすみす逃すことに。
平家は千余艘を三手にわける。山鹿(熊本県)の兵藤次秀遠、五百余艘で先陣に。松浦党、三百余艘で二陣に。平家の君達、二百余艘で三陣に。先陣の秀遠(比で十)は勢兵五百人を選んで舟の前後に立たせ、肩を一面に並べて五百の矢を一度に放つ。
源氏は三千余艘の船だから、数は多いものの、平家方の方々から矢がきたもんだから、どこに兵士がいるのかもわからず。大将軍の九郎大夫義経も真っ先に進んで戦ったが、さんざんに射すくめられた。
「平家みかた勝ちぬとて、しきりにせめ鼓(つつみ)うッて、よろこびの時をぞつくりける。」
このあたりまで平家有利。その後、潮目も変わって、ということに? 次回のお楽しみということです。