3.10『二つの 炎の記憶』関東大震災と東京大空襲

今日は3・11。東日本大震災から8年です。今日は追悼の催しや復興を伝えるニュースをテレビや新聞が伝えると思いますが、前日の3月10日は、東京大空襲のあった日でした。今日は朝日新聞から、メモ代わりに引用と写真を。

朝日新聞10日の福島申二編集委員のコラム「日曜に想う」から。要約しながら・・・

炎の記憶 下町に刻まれた日

 先日亡くなられたドナルド・キーンさんとともに、川端康成の名訳をし、日本文学に多大な貢献をしたエドワード・サイデンステッカー(2007年没)は、晩年の随筆集「谷中、花と墓地」に、散策していて「大正12年9月1日と昭和20年3月10日に死んだ人々の墓がいかに多いか」と書いているそうです。

この二つの日付に共通しているのは東京の下町を炎に包み、ともに言葉に尽くせぬ惨状をもたらした。大正の日付は関東大震災、昭和は東京大空襲である。片や天災、もう一方は戦災。しかし、米軍は関東大震災による木造家屋密集地の甚大な火災被害に早くから注目して参考にしたという。そのために木造家屋の長屋街を忠実に再現、焼夷弾による攻撃実験を行った。

 3月10日未明,279機のB29が投下した30万発を超す焼夷弾に東京の下町は焼き尽くされる。一夜にして約10万人の命が奪われて、きょうで74年になる。

 日本は罪深いことに丸腰の庶民を精神論で立ち向かわせた防空法は国民にタイへの禁止や消火義務を課していた。「逃げるな、火を消せ」である。

 そして新聞は、国が言うままに精神論で尻を叩き続け、「防空美談」を報じた。

その後、名古屋、大阪も空襲を受ける。直後の3月20の本誌社説は「空襲に打克つ力」と題して「われらもまた本当に爆弾や焼夷弾に体当たりする決意を以て敵に立ち向かおうではないか」。同じ新聞の後輩として胸がきしむ思いがする。

 上空からの無差別爆撃を「眼差しを欠いた戦争」と言ったのは、軍事評論家の前田哲男さんである殺す側も殺される側も、互いを見ることがないからだ。

 「(殺される人々の)苦痛にゆがむ顔も、助けを求める声も、肉の焦げる臭いも、機上の兵士たちには一切伝わらなかった」(「戦略爆撃の思想」から。)

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 ◎ところが、そういう空間的な距離だけでなくて、時間的な距離も戦争をリアルなものから遠ざけていきますね。先日、Eテレの朝の番組で宗教者の方、聖公会のトップの方のお話が放送されていました。最後に日韓問題のことを触れておられました。
 加害者に『和解』はあり得ない。赦しは死ぬまで得られない、というお話でした。心の問題ですので厳しいお話でしたが、ここ最近の日韓問題での政府関係者の発想が厳しく批判されていました。もう終わったこと、など加害者側が言うべき言葉ではありません。

 記事の最後にも触れてあるように、東京大空襲の前に、中国で日本軍は重慶爆撃を行っていました。その時の非道な無差別爆撃を見たアメリカが、日本に敵討ちしたのが東京大空襲だという話もありました。目には目を、暴力には暴力では、いつになっても戦争はなくならないということですね。

◎昨夕の食事時、小さなグラス一杯のワインが効いたのか、母が上機嫌でいつにも増して饒舌でした。雨の日だったけど、日中はどう過ごしたんですか?と夫が訊いたら、母が、これでもいそがしくてね。と俳句の先生の来年の百寿のお祝いに俳句誌の共同出版の企画があって、それに20句出さないといけないし、それに、大阪の府知事と市長選があるので、誰か知名度のあるいい人がいないか考えていた。読売新聞ではクイズ王の辰巳琢朗さんの名前が挙がっていたけど、これは思いつかなかった。別に頼まれてもいないんだけど、これで結構忙しいと笑いながら言うので、私たちも大笑いです。辰巳琢朗さんの話はなくなりましたが、幅広く支持を受けられる人材を見つけて、今度こそ、府からも市からも維新を一掃するするチャンスにしたいもの・・・と我が家の茶の間では盛り上がっています。