「在日一世の詩人・金時鐘に訊く(2)-朝鮮人差別は蔑み=拒否感・嫌悪感」

昨日のブログに続きの前に、朝日新聞の金 時鐘「語るー人生の贈りもの」の「1~3」から。

1929(昭和4)年、日本が植民地支配した朝鮮の釜山から(プサン)生まれ。父親の郷里は北部の元山(ウォンサン)。旧制中学時代、抗日独立を訴えた「3・1運動」(19年)のデモに加わって退学させられる。母親も読み書きの素養があり、高齢出産のためか、幼いころ元山のプロテスタント信者の長老格の祖父宅に預けられ育つ。やがて両親が母親のふるさと済州島(チェジュド)に移り住み、引き取られる。日本の敗戦で開放を迎えた後、両親と一緒に済州島から元山を目指すも、北緯38度線に阻まれ南北に生き別れる「離散家族」となる。

母親の実家は今の済州空港辺りにあり料理店を営んで忙しくしていた。父親は突堤で釣り糸を垂れ、朝鮮服姿で町を歩き、使ってはならない朝鮮語で暮らしていた。「非国民」呼ばわりされても仕方のない父親とは対照的に、時鐘の「皇国臣民化」は順調。朝鮮人の子どもが通うわ公立普通学校(小学校)に通う。3年から朝鮮語の授業はなくなり朝鮮語は使えなくなったが何の差しさわりもなかったという。

日中戦争が始まり、南京陥落を祝うちょうちん行列にも勇んで参加、植民地朝鮮の子どもを「天皇の赤子(せきし)」にする教育を受け、天皇は「現人神(あらひとがみ)」だと信じて疑わなかった。国民学校6年の1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まる。「毎月8日は『大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)』となり、朝礼時に式典がありました。東方遥拝、皇国臣民の誓い、「君が代」「海ゆかば」の斉唱。12月8日は旧暦での私の誕生日でもあり、大変誇らしかったです。」

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◎さて、インタビュー記事のつづき、その2です。

青木理 特別連載】官製ヘイトを撃つ 第六回
第六回 日本と韓国、市民サイドの関係をもっと深める創意工夫を 在日一世の詩人・金時鐘氏に訊く
金時鐘 × 青木理
2019.7.19

本文見出し↓の「日本人は自分に損得がない限り社会にかかわろうとしない」というのはここ数年の安倍政権の無茶苦茶に対して国民が怒らない、表に出て行動しないことからも明白な事実ですね。それが国民性と言われるとそうなのかも・・・そして金さんは「在日朝鮮人に対する差別というのは、差別ではなくて蔑(さげす)みだ」「これは明治以降、まるで遺伝子のように脈々と受け継がれている。内心化されたDNAみたいなものです。それは拒否感、嫌悪感です」と語ります。これも、事実だと認めたくありませんが、そうなんですね・・・

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自分に直接的な損得がないと

日本の人は社会に関わろうとしない

――かつて何があったかの歴史を知り、おのれの国が何をなしたかを真摯に省察し、相手の立場や周辺状況にも思いを致す……。まったく同感ですが、近年の日本社会はやはり逆の方向に歩を進めています。何よりも政権が先導する形で歴史認識を逆回転させている。韓国との間でも、いまだに歴史認識問題をめぐって対立が続き、むしろそれは高まる一方という始末です。

金時鐘 これは日本人の伝統的な気質みたいなもののように思われてならないんですが……、私は、決して悪口として言うつもりではないんですけど、日本人は総じて、過ぎ去ったことは過ぎ去ったこととしてケロッと過ごしてしまうという習慣めいた気質があるようですね。日本が戦争に負けたのは私が17歳のときです。言うのも恥ずかしいけれど、植民統治下で生まれ育った私も相当な軍国少年、皇国少年の1人でした。鬼畜米英といってアメリカを憎み、アメリカ兵に捕まったら女はみんな凌辱されると思っていた。アメリカ兵なんていうのは人間じゃない、人間を生のまま食ってしまう鬼のような奴らだと教えられ、それを本当に信じ込んでいたんです。

――ところが敗戦と同時に大半の日本人はそんなことを忘れてしまったと。

金時鐘 ええ、見事なほどにケロッと。しかもトルーマンの日本占領政策というのは、皮肉も込めて言えば、非常に優れていました。日本は天皇さえ安泰にすれば、国民はみんな静かになると見抜いていた。天皇に戦争責任がないなんて思った人、当時はほとんどいなかったでしょう。天皇の名で召集され、徴用され、死ぬときは「天皇陛下万歳」と叫ばされたんですから。私みたいに植民地で育った人間ですら、戦争に負けた際は茫然となってしまって、10日ほどは飯もろくに食べられなかったほどです。なのに日本人は、お人好しなのかどうなのか、過ぎたことは過ぎたことというふうにケロッと忘れ、冷戦体制下における極東の一大拠点にするというアメリカの思惑どおりに染まってしまった。原爆投下だってそうですよ。あんなものを落とす必要はなかった。実験ですよ、あれは。

――おっしゃる通りです。実験であり、民間人に対する無差別殺戮でしょう。

金時鐘 一方の韓国では、教科書などで延々と植民統治の過酷さ、残酷さを教えますからね。ただし、それでも韓国の人びと、特に若者たちは最近、年に百何十万人も観光で日本に来ていますから、韓国人は決して日本人嫌いではない。日本は清潔だし、礼儀正しいし、むしろ好感を抱いている。だけど、国と国という関係に立つと、教えられたものがちゃんと作用する。

――もちろん韓国にも、まして北朝鮮には大いに問題はありますが、やはり僕は日本に暮らすジャーナリスト、物書きの1人として、日本の政治と社会の現状を深く憂います。そして思い出すのは生前の金大中(キム・デジュン)にインタビューした際のことです。日本の表も裏も知り尽くした彼は、こんな趣旨のことを言いました。結局のところ日本の人びとは自力で民主主義を勝ち取ったことが1度もないんだ、と。そのとおりだと僕は思います。米軍基地を押しつけられた沖縄にせよ、軍事独裁に抗して民主化運動を繰り広げた韓国などは特にそうですが、民主主義の本当の必要性やありがたさを切実に感じている。虐げられてきたからこそ、民主主義というものは人びとが自分でつかみとり、努力を続けていかなければならないことを肌で知っている。

ところが戦後の日本は、僕も含めて幸せだったといえば幸せだったんでしょうが、先ほど時鐘さんが指摘されたように、戦争に負けたら「鬼畜米英」から「戦後民主主義」へと瞬時に宗旨替えし、ドイツなどとは違って分断の苦悩は朝鮮半島に押しつけ、日米安保体制こそが日本の基軸だといいながら、その最大の負の側面である米軍基地は沖縄に押しつけている。しかも戦後日本の高度経済成長は朝鮮戦争が最初の跳躍台でした。要するに、不幸はすべて周縁部に押しつけ、日本の人びとは……もっと正確に言えば本土の人びとは、その果実だけを貪り食ってきてしまったのではないですか。

金時鐘 いや、押しつけた意識すらないでしょう。押しつけるというのは、ある意思が働いた結果です。本当は、押しつけていることすら知らない――そうかもしれません。

 総じて日本人はおとなしいし、波風を立てることがないように慎ましやかに対応する人たちですが、私のようにとうが立った者からすると、関わることをむしろしないんですね。関わることをしなければ、波風だって立たない。そうした中でも敏感になるのは自己との関係における直接的な得失でしょう。得るか、失うかの関係には、日本人はものすごく敏感に対応します。

――ならば、ここで例に出すのは不適切かもしれませんが、街頭に繰り出してヘイトスピーチをがなりたてる連中などというのは、時鐘さんの見つめ続けてきた日本社会ではむしろ珍しい存在なわけですね。

金時鐘 あんなに正面きって口にするのは、よほど豪胆なのか、あるいはよほど無神経か、そのどちらかでしょう。ただ、在日朝鮮人に対する差別というのは、差別ではなくて蔑みだと申しあげました。これは明治以降、まるで遺伝子のように脈々と受け継がれている。内心化されたDNAみたいなものです。それは拒否感、嫌悪感です。日本に何十年住んでも変な日本語を使い、身なりは汚らしく、食べ物は訳のわからんものを食べるというので、そういう嫌悪感や拒否感が蔑みに変わった。

 もちろん、是正されている部分もあります。同じ蔑みであっても、振り返ってみれば1980年代の半ばまで、朝鮮人を悪し様にいう罵りの最たるものに「ニンニク臭い」というのがありました。あのにおいが苦手な者には確かに嫌なものでしょうが、いまは「ニンニク臭い」なんて誰も言わない。焼肉やキムチがこれほど一般に広がったんですから。日本全国のあちこちにある焼肉屋の味つけは在日朝鮮人の生活の知恵からはじまったもので、本国の焼肉にまで広がっています。ホルモン料理だってそう。あんなもんは昔、タダみたいに分け合っていた。でも、臭くてよう食べられんかった。それを在日朝鮮人が工夫をして、あれはメリケン粉で揉むとにおいがとれるんですね。腸を裏返して、メリケン粉をぶち込んで揉んだらとれる。それでホルモン料理が盛んになった。

だから文化という面では是正可能だと考えるんですが、文化というのは非常に独自なものでね。ある一定量の人びとが、ある特定の場所で、一定の年月を超えて生活すると、その人たちの独自の生活文化がそこに芽生えてくる。行った先で豊かになってくる。ただし、蔑みが完全に是正されるのは難しい。


――しかも最近の日本を眺めていると、要するに余裕を失ったから、あるいは不安や焦燥に怯えているから、自分たちは優れているんだとか、日本はスゴイんだと強調する一方、隣国やマイノリティに薄汚い悪罵を吐きかける風潮が強まっている。

金時鐘 そうかもしれませんね。さらに言えば、現在の政権の下では森友学園とか加計学園の問題などが相次いで発生し、財務省は公文書の改竄などという信じがたいことまでしでかした。こんなもの、ほかの国なら懲役刑ものの犯罪行為ですよ。なのに誰も罪に問われない、責任も取らない。日本の国民も大して怒ることもなく、大規模なデモやストが起きるわけでもない。やはり自分に直接的な損得がないと、日本の人はあまり関わろうとしないんですね。平和であればいいというふうに言うけれど、民主主義がそうであるのと同様、平和というのも手放して保たれるものではなく、憲法9条が掲げている平和主義に不断に思い致して、そのような国の日本であるように銘々が努力しなければならないというふうには考えない。

【次ページ  ヘイト本を出している出版社は、人種差別をあおるようなことまでして金もうけに躍起になるなんて、人間として恥ずかしくはないのか】MMMMMMMMMMM