日本と韓国。青木理氏のインタビューで在日一世の90歳の詩人・金時鐘さんに訊くを朝日新聞の連載「詩人 金 時鐘(キムシジョン)『語るー人生の贈りものー』」と合わせて読んでいますが、今回はその3です。
先に「語る」の4~7まで。
《1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で植民地朝鮮は開放された》
金さんは数えの17歳で朝鮮半島南西部、光州(タワンジュ)にある教師になるための学校に在学。夏休みで済州島(チェジュド)に帰省中、晴天のへきれきのような「解放」に出会う。公民科教育が骨の髄まで浸透していた皇国少年は、「万歳、万歳(マンセー)」と町中が歓喜で沸き返る中、一人日本の軍歌や唱歌を口にして打ちしおれていたという。そんな時、ふと口をついて出た歌、朝鮮語の「いとしのクレメンタイン」だった。幼いころ,済州港の突堤で毎晩、釣り糸を垂れる父の膝で聞いていた歌詞が血肉の中に居座ていた。朝鮮が私の中でよみがえったのです。やがて、植民地統治の過酷さを知るにつれ、血が逆流するように学生運動になだれていった。
《1948(昭和21)年4月3日、南朝鮮だけの単独選挙に反対する武装勢力が済州島で蜂起。軍や警察の鎮圧で数万人の島民が虐殺された》 解放後の済州島では、米軍政下の警察が極右勢力と組んで横暴を極めた。「3・1独立運動」の記念日を祝う集会のデモ隊に発砲して死傷者を出し、抗議のゼネストでも多くの若者が残忍な拷問を受けて惨殺された。目に余る弾圧への怒りが、蜂起の導火線になった。
《48年8月15日に韓国、9月9日に北朝鮮が樹立する》蜂起側に加わった金さんは追われる身となり、身をひそめる。南単独の選挙で作り上げられた韓国の李承晩(イスンマン)政権は「反共・滅共」を大義名分にして済州島での虐殺をほしいままにしをし、 米軍はむしろ後支えをした。
ハルラサンにこもった蜂起勢力に対し、韓国の軍隊や警察は「焦土化作戦」で中山間部の集落を無差別に焼き払い、大勢の農民が巻き添えになった。「赤狩り」と称した民間人虐殺は、朝鮮戦争(50~53年)まで続いた。
事件から70周年の昨春、追悼の思いこめて金時鐘さんが作った詩です:
「死者には時がない」
強いられた死の死者に時間はない。
その日その時のままに凝固して止まっている。
記憶が褪せない限り 私たちが怠らないかぎり
4・3の死者は私たちのかたわらで生きている。
《南朝鮮の単独選挙に反対する48年の武装蜂起「済州島4・3事件」に参加。官憲の虐殺を逃れ、49年初夏に島を脱出する》友人や知人の助けを借りながら身を潜め、明日をも知れない自分の命に怯え通した金さんでした。「父はあらん限りの手を尽くして済州島から私を逃がすことに懸命でした。サーチライトが交錯する中、私は、調達された小さな漁船で済州島を離れ、日本に向かう闇船が来るという沖合の小さな岩場の無人の島を目指しました。」「李承晩の反響独裁政権が続いた韓国で「赤色逃亡者」を息子に持った両親の暮らしが、いかほど過酷のものであったかは想像するに余りあります」。最終会を果たすことなく両親は57年、60年と相次いで亡くなる。「年老いた父母を捨て、『4・3』から逃げを打った私は日本で生きながらえているのです。私の『在日』は積み深い日々の重なりでもあります。」
◎金さん自身、ディアスポラ(離散者)ですが、日本の難民や離散者に対する差別やヘイト、それは離散者となって他国へ行った日本人に対してすら同じような冷たさ、無関心に心を痛めます。それでは、引用です:
ヘイト本を出している出版社は、
人種差別をあおるようなことまでして金もうけに躍起になるなんて、
人間として恥ずかしくはないのか
――このままいくと、この国はどうなると思いますか。時鐘さんにとっては、ディアスポラとしてですが、人生の多くを過ごした場所でもあるわけですが。
金時鐘 最近は特定秘密保護法だとか、盗聴法(通信傍受法)の強化だとか、そんなことまで強圧的に導入されてしまいましたからね。私のところにもさまざまな方から、反対集会をするから発言してくれとか、賛同人になってくれといった依頼がくるときがあって、お断りするのも非常に辛いんですが、定住外国人の私は出入国管理令(現在の入管難民法)などで政治活動を禁じられている立場のひとりです。たとえば青木さんが普段発言されていることの3分の1くらいのことを私が口にしたら、すぐにも外事課の人が尋ねてくる可能性だってあります。
ディアスポラの問題にしても日本は難民受け入れにもっとも消極的な国であるばかりか、境界を行き来することに制約が多い国でもあります。渡りに船とばかりに厄介払いをしたつもりの帰国者たちだったかもしれませんが、“地上の楽園”と喧伝されて北朝鮮へ帰国した10万人近い在日コリアンのその後の消息についても、日本政府は関心ひとつ向けませんでした。夫に従って北へ帰っていった日本婦人の想像に余る窮状に、同族として声を上げることもありませんでした。この人たちは実質的な離散家族となって、生活苦の北朝鮮で生涯を大方終えつつあります。日本人妻といわれる婦人たちの境遇には特に、朝鮮人のひとりとして胸が痛みます。
――時鐘さんが指摘されたとおり、朝鮮総聯はもちろんですが、政治的、社会的に影響力のある在日コリアンは、一貫して公安警察や公安調査庁の監視対象にもされてきました。これも苛烈な人権抑圧そのものですが、そんなことすら知らない、知ろうともしない連中が、何度でも言いますが「在日特権」などというデマを撒き散らす。しかもそれを政治が煽り、大手の出版社までがヘイト本を平然と出版しています。時鐘さんとは比べるべくもないですが、僕も物書きの端くれであり、僕たちの生業の場である出版界、メディア界が差別や排他主義を商売にしている状況をどう考えますか。
金時鐘 本当に許しがたい。朝鮮に対してだけじゃなく、中国に対してもひどいもんだ。裏を返せば、金もうけのためならなんでもするという一面が日本の出版社にはあるんですよ。こんな本や記事ばかり読まされたら、北朝鮮ばかりか、韓国嫌いにもなる。私は日本に定住している朝鮮人として、こういう本を出してはばからない出版社に改まって聞いてみたい。人種差別をあおるようなことまでして金もうけに躍起になるなんて、人間として恥ずかしくはないのか、あんたたちに恥の概念や人権意識は働かないのか、と。――こんな腐ったことをしていたら、本当にこの国は滅びかねません。
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◎金時鐘「語るー人生の贈りもの」(7~9)、いよいよ日本での暮らしが始まり、朝鮮戦争勃発です:
1929年生まれの金さん《二十歳のとき、虐殺が続く韓国の済州島から海を渡り、大阪の「猪飼野(いかいの)」で暮らし始める》
猪飼野(大阪市生野区、東成区)は本国でさえ廃れてしまった生活習慣が民族遺産のように受け継がれていた。在日同胞の集落地であり、その源流のようなところだ。49年の6月、ここにたどり着き、ろうそくを作る工場の住み込み行員になった。生活は困窮を極めたが、命の危機がないのが幸い。ただ、両親をおいて逃げた後ろめたさから民族団体の活動家になった。
《「猪飼野」という地名は70年代前半、行政の住居表示から消えた。同胞の日々の暮らしを78年、『猪飼野詩集』にまとめる》
<なくても ある町。/そのままのままで / なくなっている町。/
みんなが知っていて / 地図になく / 地図にないから /
日本でなく / 日本でないから / 気ままなものよ。>(「見えない町」から)
植民地朝鮮から渡り、低賃金労働者として猪飼野に住み着いた同胞は、日本の戦争遂行を支える貴重な労働力でもあり、後の朝鮮戦争でも一帯の零細工場が末端の下請けとなり、特需景気に沸く日本企業を支えた。
猪飼野の商店街はいま「生野コリアタウン」と称し、韓流を楽しむ若者たちでにぎわっている。小戸ずれる人々は歴史認識をことさら気にしなくても、K・POPのリズムは高く鳴り響き、漫然と日韓はつながっていもいるのです。
翌年の1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。《日本は、韓国軍を支援した国連軍の出撃や軍需物資補給の拠点になり、特需景気にわいた》
南海難波駅で配られた号外でしり、「これで南朝鮮(韓国)の反共の殺戮者が一掃されると興奮すら覚えた。在日朝鮮人運動は「共和国」を支持する同胞が圧倒的多数を占め、金さんも社会主義を掲げる北朝鮮に正義があると信じていた。
下請けで爆弾の信管に使うピンを削る仕事をしている在日の零細工場を回り「同胞を殺す兵器づくりに手を貸してはならない」とせっとくしたり、応じないと、組織の青年が力ずくで機械を壊しにかかった。一家総出の工場のおばちゃんがじめんにへたりこんでやめてぇ」と泣きわめき、若い工場主は「おれ、もう朝鮮やめやぁ」と路地で声を上げました。今もって心に食い込んでいる叫びです。
《52年6月、大阪府の国鉄吹田操車場にデモ隊が侵入。警官隊と衝突する「吹田事件」が起きる》
金さんは組織の機関誌にルポを書くためデモ隊を追った。「軍需列車を1時間遅らせれば、千人の同胞の命が助かる」と言われていた時代。列車を止めようと線路に横たわっていた青年たちの姿は、今でも込みあがってならない記憶です。
53年7月27日、休戦協定が調印されたのが板門店(パンムンジョム)です。南北軍事迂回船が通る文壇の象徴の場で今年6月末、米朝首脳が顔を合わせました。両首脳の思惑をこえて、同胞の一人として熱くなりました。和解につながる実りがあることを願わずにはおられません。
金時鐘さんが詩と出会ったのは道頓堀の古本屋で手にした小野重三郎著『詩論』だった。小野先生が始めた「大阪文学学校」では詩の講師を長年務め、文学を志す多くの仲間と年齢国籍を超えた交流ができた。もう一つは、組織に属さない在日朝鮮人の青年が出会える文学サークルの詩誌だった。ここで、ここで、60年以上共に暮らしてきた妻とも出会い、そして、生涯の友となる梁石日(ヤンソギル)とも。
《日本語の詩作は1955年、第1詩集『地平線』として実を結ぶ》詩集は、済州島へ行き来する人に頼んで両親に送り、2年後亡くなった父の棺の中にその詩集は収められた。
<父と子を 割き / 母と わたしを 割き / わたしと わたしを 割いた/
『三八度線』よ、/ あなたを ただの 紙の上の線に返してあげよう。>
(「あなたは もう わたしを差配できない」から)