【あいトリ問題】『アート』論(小田嶋隆)と「公共の解体と私物化」(想田和弘)

あいちトリエンナーレの「報道の不自由展」を巡る問題について、お二人の記事を。

【1】一人は、内田樹氏のツィッターで見つけた小田嶋隆氏の記事。そもそもアート、芸術というのは一部の人たちが不快に感じるからやめてほしいなどというものではないという「芸術、アートとはなにか」を論じます。出だしは、10月から朝の民放の情報番組の出演が決まったという立川志らく氏の10月8日のツィートを取り上げます。

立川志らく「表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことが子供の頃に親から教育をうけなかったのかなあ」について、小田嶋氏は、「司会者自らがこんなツイートをしているようでは、志らく氏の番組は、視聴者を啓発する情報を発信できていないのだろうと判断せざるを得ない。もう少し平たい言い方をすれば、あまりの無知さ加減にあきれたということだ。」

・言うまでもないことだが、表現の自由」なる概念は、作品の出来不出来や善悪快不快を基準に与えられる権益ではない。その一つ手前の、「あらゆる表現」に対して、保障されている制限なしの「自由」のことだ

・・・・要は、「美醜」や「善悪」や「巧拙」は、他人による事後的な(つまり「表現」が「作品」として結実した後にやってくる)評価に過ぎないということを私は言っている。これに対して、「表現の自由」は、作品ができあがる以前の、表現者のモチーフやアイデアならびに創作過程における試行錯誤を支配する、より重要な前提条件だ。

表現の自由は、不快な表現や、倫理的に問題のある作品や、面倒臭い議論を巻き起こさずにおかない展示についてこそ、なお全面的に認められなければならない。

 というのも、「多くの人々にとって不快な表現であるからこそ」その作品を制作、展示する自由は、公の権力によって守られなければならず、為政者はそれを制限してはならない、というのが、「表現の自由」というややわかりにくい概念のキモの部分だからだ。

 実際、今回の「表現の不自由展」に向けて出品された作品の中には、一部の(あるいは大部分の)日本人の素朴な心情を傷つける部分を持った表現が含まれている。

 しかし、もともと「アート」というのは、そういうものなのだ。

◎全文を是非こちらで: 
◎最後の結論部分から:

 表現の自由は、美しい表現や正しい主張を守るために案出された概念ではない。多数派に属する大丈夫な人たちの権益を守るための規定でもない。むしろ、美しくない作品に心惹かれる必ずしも正しくない異端の人々の生存にかかわるギリギリの居場所を確保するために設けられている避難所のようなものだ。
 その避難所を、私たちは、自分たちの手で閉鎖しようとしている。
 そしてあらゆるタイプの少数者の娯楽をすべてにおいて、95%に属する側の人間たちが焼き尽くした時、多様性を失った世界は、穴を塞がれた混沌と同じく、突然死することだろう。
 あまりに不吉な近未来なので、いっそ口に出して明言しておくことにしました。
 予感が当たった時に、ちょっとだけうれしいかもしれないので。
(文・イラスト/小田嶋 隆)

【2】 もう一人は、「この問題は表現の自由を脅かすと同時に、安倍政権による『公共の解体と私物化』を象徴する出来事だと思います」という映画監督の想田和弘の記事です。想田氏はまた京アニ事件後の『「ガソリン携行缶持って館へおじゃますんで」などとテロ行為をほのめかした脅迫』に対してもツィートしておられます:

 想田和弘 @KazuhiroSoda  11h

「問題は、オリンピックのためには「テロ等準備罪」まで新設して「テロの脅威」に備えた安倍政権が、なぜ、あいちトリエンナーレへの「テロリス自由脅迫」に対しては、「テロリストの脅しには屈しない」という強い態度を取るどころか、逆に被害者であるトリエンナーレ側を厳しく罰する行為に出たのか」 

◎ここで想田氏が使われている『公共』という言葉は私に二人の教師を思い起こさせます。一人は高校時代の現代社会の先生。1960年安保闘争が激しい春に高校1年生になりました。社会科の先生が,権力者が使う「飴と鞭」の政策の危険性や「公共の福祉」で自由権が制限されることを授業で訴えておられました。学校近くの小さな公園では石橋にある大阪大学から来た学生さんがアジテーションの演説をしていた時代です。今はカナダにいるSさんと下校途中、怖いもの見たさもあって遠巻きに覗き行ったりしました。テレビや新聞の"全学連‟と現実がつながったシーンでも。

もうお一人は大学時代の一般教養で憲法を教えておられた先生。後に京都大学にもどられましたが、人気授業の一つでした。この時も憲法に書かれている憲法21条の権利(集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない)は「公共の福祉」を掲げて制限される危険性について実例を挙げて説いておられました。

時代は変わって、安倍政権の今は「公共」そのものが『解体されて私物化』されているという 。その例として「加計、森友、NHK、水道民営化、種子法」などが挙げられています。これも読みごたえがあります。