映画『誰がために憲法はある』と井上淳一監督のトークとパンフレットから

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◎3連休の最終日の4日、夫は朝からシルバー人材センターの体験就労とかで公園の清掃に作業着を着て出かけました。昼食を早めに用意していると夫が帰宅。私はピースフェスタに参加する高校生の取り組みも見たかったので午後1時に合わせて出かけました。

映画の前に箕面高校1年生のダンス部によるパフォーマンスがありました。私から見るとどれもブレイクダンス。ところが最近ではブレイクダンスとは言わないようです。腕の関節を高速で動かすダンスとか、ヒップホップとか紹介があったのですが、名前もすぐ忘れるし、どれも同じに見えてしまいます。ダンスの授業が何年か前に取り入れられるというニュースがありましたが、中学校ではダンス授業があるのでしょうね。写真を撮ってみましたがシャッタースピードがダンスのスピードに追い付かないので、どれもブレています。最後の全員集合の写真を。

 ◎そして、映画『誰がために憲法はある』の上映が始まりました。

タイトルのと出だし、「誰がために」と聞くと、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を思い出します。懐かしさと古めかしさと、同時に、”戦争”を思い浮かべます。

真っ暗な画面に白いブラウスを着た渡辺美佐子さんが浮かび上がり、「私は70歳。私は憲法です。姓は日本国、名は憲法」と渡辺美佐子さんが名乗りを上げます。「私というのは、戦争が終わった後、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」「私の初心、私の魂は、憲法の前文に書かれています」と、憲法前文の朗誦が始まります。

私は、ちょうど前日、ご縁ができた若い世代の人に向けてどうしても伝えたいことがあって、手紙を書き始めていました。なぜ伝えたいかを考えると、それは「平和」に行き着くし「戦争」について書かざるを得なくなり、「憲法」が脅かされている今の危機的状況を分かってほしくて、そのことに触れざるを得ず、長い長い手紙になりそうでした。そのことと、渡辺美佐子さんが読み進む憲法前文の内容が重なって涙が頬を伝うのを抑えることができません。

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。  

 そして、映画の中の渡辺さんは広島に向かいます。小学校の頃の初恋の「水(永)龍(男)」の2字でしか覚えていない少年が疎開先の広島で、学校総出の建物破壊作業中に原爆で消えたように亡くなっていたことを、戦後35年目にして知ることになったのです。322名全員が亡くなったそうです。そのうち70名が最後の言葉を残して。残された2つの言葉、一番多かったのが「おかあさ~ん」、次に「天皇陛下ばんざ~い」だったといいます。初恋の少年の原爆死を知った渡辺さんは今年まで33年間、ベテラン女優さんたちと原爆朗読劇の公演を全国各地で続け、今年で幕を閉じます。

(写真はコチラから:(映画『誰がために憲法はある』公式サイト)

 ◎映画が終わった後、監督の井上淳一氏が登壇。話始められてビックリしました。若松孝二監督の弟子で、「しんゆり映画祭」の慰安婦問題の映画「主戦場」の上映中止に抗議して上映ボイコットされた若松監督の「止められますか、俺たちを」の脚本を担当したとのこと。ブログで「しんゆり映画祭」を取り上げたところでしたし、「特別な1日」さんの昨年のブログで「止められますか・・・」の映画の内容を知ったところでした。あの脚本を書いた方!

トークの内容はパンフレットの中のステイトメントと重なるので最後に)

井上監督は、いつもこういう映画は同じ考えの者同士の自己確認にしかならないけれど、この会場は高校生が沢山いるので…ということで、かなり長い間、かなりの早口で話されました。最後にパンフレットを20部用意してあるので、と言われて、私はメモを取っていたのですが、パンフレットが欲しかったのですぐ会場を出ました。

3,4人の後について、パンフレットにサインをいただきました。後で写真を撮らせていただいていいですか?とお願いしたら一緒に取りましょうと私のカメラを、(名前と肩書というか仕事の内容を紹介されたのですが・・・とにかく)映画製作に携わる背の高い方に渡して、二人で並ぼうと言われました。私は自分は写りたくないんですが…と言ったのですが、そんなこと言わないで、と。(その時の写真、せっかくなので、一大決心をして顔出しします)。

井上氏に、壇上から見て高校生は多かったのですか?と聞いたら、「それはもうたくさんいましたよ」「それは良かった」と私。スタッフさんたちが一緒にと言われましたが、スタッフでもないので遠慮して写真を撮らせていただくだけにしました。赤い服の方が司会をされた九条の会の方、市会議員の増田さんも、後ろの女性は結いの会の方でしょうか。

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ロビーには、憲法は国民を縛るためでなく、政府や役人、国民の代表者を縛るためなのだということを条文ごとに絵に描いた(絵本の頁なのかな)ものが張り出されていました。現憲法自民党改憲案の対比も張り出されていて、取り組まれた皆さんのアイディアと熱意が込められていました。

パンフレットの中に、ステージで話された内容が「監督ステイトメン」として掲載されていますので、これを書き移しておきます:

監督ステイトメン

 『映画を武器に世界と闘う』 とは、我が師・若松孝二の言葉だが、いまの世の中の流れに対して、映画は何もしなくていいのかとずっと思ってきた。特定秘密保護法マイナンバー、集団的自衛権共謀罪、沖縄の民意は相変わらず無視されたままだし、原発は当然のように再稼働。昨秋の臨時国会でも、水道は民営化されるわ、外国人の人権を顧みないまま入管法は改正されるわ、もうやりたい放題である。そして、ついに憲法改正。2020年に新憲法を施行したいと安倍政権は言う。現行憲法でもこれだけ好き放題やっているのに。憲法を変えられたらどうなるか。自民党改憲案を見て、驚く。

 憲法とは本来、権力も持った者が好き勝手やらないように「国民が国を縛る」ものであるが、自民党改憲案は「国が国民を縛る」ものであり、その先にあるのは、この国を再び戦争のできる国に戻そうという明確な意図である。

 そんな時に映画は何もしないでいいのか?映画を武器に闘わなくていいのか?スマホでも映画が撮れる現在、「世界と闘っている」ドキュメンタリーは数多ある。しかし、自分の作品も含めて、「届く人」にしか届いていのではないか。映画とは、表現とは、本来、「届かない人」の価値観をあぶるものではないのか。

 お笑い芸人・松元ヒロさんの「憲法くん」は、日本国憲法を擬人化し、ユーモラスに語ることで、届かない人に届けようと、その高い壁に果敢に挑んでいる。この「憲法くん」を憲法と同じように高齢で高名の役者さんに演じてもらい、映画にすれば、今まで届かなかった人にも届くのではないか。しかし、憲法前文を含む膨大な台詞を覚えなければならないという問題があった。だから、渡辺美佐子さんが、「大変だけど、いいわよ、覚えるわよ」と言ってくれた時には、涙が出た。

 渡辺さんとの共同作業の中で、初恋の人が、疎開先の広島の原爆で亡くなったと知った。その鎮魂の意味も込めて、もう33年も毎夏、原爆の朗読劇を続けられていることも。その朗読劇も出演者の体力的な問題から今年で終わる。これを撮らない手はない。そうやって、出来上がったのが、この『誰がために憲法はある』だ。

 憲法くんは言う。「わたしというのは、戦争が終わったあと、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」と。その理想がするりと掌からすべり落ちてしまいそうないま、表現にかかわる者の端くれとして、何もしなくていいのか。そういうやむにやまれぬ思いから、この映画を作った元号が変わり、現行憲法最後の憲法記念日になるかもしれない日、憲法に関する映画が一本も上映されていない国で、僕は映画に関わり続けることはできない。

 憲法は誰れのためにあるのか。憲法は誰のために生まれたのか。その「誰」には、生者のみならず、戦争の犠牲になった死者たちも含まれるはずだ。いまはただ、ひとりでも多くの届かない「誰」かに届くことを願うのみである。

                       井上淳一 

◎帰宅して、チラシのお礼の電話をSさんに。

「行ってたの~」「行ったよ,よかったね~」「映画もよかったし、まさか監督さんがホントに来られるとは」「ブログで『しんゆり映画祭』の顛末を取り上げていたところだったのでビックリ」「私もブログ読んでたから、すぐわかった」「高校生ががんばってたし、お話も大勢が聞いてたらしい」「出番が終わった子や、これからの子たちが客席にいた」「箕面市がこんな催しを後援しているのもうれしいね」「今年のピースフェスタが一番よかったわ」「あなたのチラシのおかげで参加できてよかった、一言お礼を」。いつも政治的な話をした後、こんな話二人でしていてもボヤいてるだけ。安倍政権を支持している人や何とも思っていない人と話をしないとだめよねと言ってるのは、井上氏の「届かない『誰』かに」という思いと同じです。 

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