昨夜はスーパームーン、8時ごろに東の空低く、
就寝前には真上に普段より明るくて大きな月が見えました。
昨日は日本初の緊急事態宣言の「発出」とか。説明を聞いても、特に経済についてどこまで保障されるのかややこしいのでよくわかりませんが、質疑応答でイタリア人記者の日本語の質問「失敗したらどういう風に責任とりますか?」に答えてハッキリと:
すごすぎて動画を起こしてしまった。
— Tad (@TadTwi2011) 2020年4月7日
記者
「失敗だったらどう責任を取るのか」
安倍首相
「責任を取ればいいというものではない(キリッ」
責任を取れないトップはいらない。すぐに辞めてくれ。
会見フルはこちら☟https://t.co/MTcNyuvZqW pic.twitter.com/hN9BkvAZ2L
「最悪の事態になった場合、責任をとればいいというものではありません」と安倍さん。じゃ、どうするつもり?が分かりません。責任感じないで今まで通り居座る? このツィートに共産党の小池氏のツィートを内田氏のツィッターから:
今まで一度も責任を取ったことがないので、責任を取るということの意味がわからないのでは
▼眞海 @maumi11 4月7日
イタリア人記者:
収集つかずに失態となった場合に責任はとるのか?
安倍日本国首相:
最悪の事態になったからといって責任を取ればいいというものではない。
(緊急事態宣言会見で)
クオモニューヨーク州知事:
全ての責任は私にある。何か問題が起こったら私が責任を取る。(毎日行われている会見で)
山崎 雅弘さんがリツイート
ジョンレモン @horiris 4月7日
イタリア人の記者から「失敗した時の責任は?」と問われ「最悪の事態になった場合は、責任を取ればいいというものではありません」そして、論点を変えながら「お国(イタリア)と比べても感染者の方の数も、死者の数の桁が違う…』
卑怯にも他国を引き合いに出し、この国のリーダーは責任取る気無し。
コロナ対策で、自ら認めている如く『無責任』に緊急事態宣言を「発出」する安倍首相ですが、この一見ゆるゆる(相変わらずの出勤風景)の宣言のいきつくところを今からしっかり見極めておく必要ありです:
▼伊東麻紀 @ItohMaki 4月7日
どうやら日本の緊急事態宣言ってのは全然強権発動的なものではないらしい。「これが今の憲法の限界なんです、だから改憲が必要なんです」という方向へ持っていきたいんだろうね。そう言われて納得しちゃう人も少なからずいそう。
▼香山リカ @rkayama 4月7日
山手線、さすがに空いてるけど別の意味で地獄
4月2日の蛙ブログで取り上げた内田樹氏のツィートは↑このことでしたね:
◆「危機は権は力に利用されやすい」 と音楽家の坂本龍一氏も指摘されていましたが、こんなへ理屈で憲法改正に持っていく?:
内田樹
@levinassien 3月31日
「コロナ対処に失敗したのは基本的人権に配慮し、三権分立を原理としている憲法のせいだ」って言い出すやつが必ず湧いて出てきますよって予言したら、もういました。安倍政権がコロナ対策に失敗した後に出て来る政権擁護論だと思ったんですけど。失敗することはもう織り込み済みなんですね。
引用ツイート
上丸洋一 @jomaruyan 3月31日
「will 保存版」なる本の新聞広告に「だから今こそ憲法改正を コロナウイルス対策もできない現行憲法」とある。
◆Hanadaのつり広告のように「憲法の所為でコロナウィルス対策が出来ない。だから、憲法改正が必要だ」と言いたければ、コロナ対策の手抜きをすればするほど、現行憲法の所為にできる・・・ということになりますね。五輪の所為だけでなくて、だからなのか~安倍さんがコロナ対策に熱心でなかったのは。コロナよりも憲法改正。今のコロナ対策よりもポストコロナ?
●こちらは「shuueiのメモ」さんが紹介されている記事です。これはとても大事なことだと思います。一時の安心のために失うものの大きさを計っておくべきです:
「未来が不確定な時、不安に駆られた私たちはより大きな声の統制を望みます。それは安心を与えてくれるかもしれませんが、その安心は思考停止と表裏一体です。
緊急事態宣言が明日にでも発令されるだろう今だからこそ、そしてそれを求める姿勢があるからこそ、「感染拡大を止める」という絶対的な正しさが覆い隠す事柄に目を向けるべきだと思うのです。」(引用元はこちら↓)
●後半部分から引用ですが、この『廃用症候群』を私たち家族も体験しました。95歳で入院した市立病院から老健に移されて「誤嚥からの肺炎」を避けるために流動食。転ぶと危ないので車椅子、その結果、普通の生活を送っていたのに食べること歩くことが出来なくなるという恐怖から父は早く出たいと思い、家族もこれでは駄目と退所を求めても数か月がかり。帰って普通食に戻し、二階が寝室という元の生活に戻って元気になりました。父と家族は二度と老健には入りたくないという体験をしました。その後7年、在宅で父らしい晩年を過ごせました。圧迫骨折や大変なこともありましたが最期は2週間の入院でした。
誤嚥が起こると肺炎になる。スタッフの仕事量を考えると時間をかけた食事介助ができない。誤嚥が起こったら責任問題。そういう理由から、口からの食事が経管栄養に切り替えられます。
すると何が起こるのか。おぼつかないながらも歩けていた人が歩けなくなり、自分で食べることはできなくなり、本当に寝たきりになってしまう。出口の見えないまま、目先の安全・安心・効率を優先した結果の廃用症候群です。
そうやって寝たきりになった人は科学の力で確かに生きています。でもそれが「生きる」ことなのでしょうか?
生きるとはリスクを引き受けながら生活していくこと
多くの人が経済を止めても補償を出せば乗り切れると考えているようです。出口が見えていれば確かにそれで乗り切ることができるでしょう。
でも出口が見えないまま元気な人の生活を止め続け、結果、社会全体が「廃用症候群」のようになるリスクはないのでしょうか?今、コロナというリスクが数値やグラフ、映像で日々可視化され、最悪の事態を想定し、最大のリスクヘッジをするよう私たちは求められています。
ですが逆に考えると、私たちは病原体に常にさらされており、例えば厚生労働省の一般向けのページによれば、インフルエンザの感染者数は国内で推定1000万人、死者は1万人、世界では25万人から50万人と言われています。でもその事実を知っても、私たちは生活を止めようとは思わない。なぜなら私たちはそのリスクをある程度回避しつつ、他方でそれがもたらす危険を受け入れて生きることを許容しているからです。
生きるということは、不測の事態とともに生活するということです。もちろんそれを甘んじて引き受ければいいというわけではない。それを避けるための努力をすべきです。
でも最大限のリスクヘッジをした結果、社会が死んだら意味がありません。
● 昨日のブログのコメント欄に頂いたnarumasa_2929さん、同じことを危惧し警告を発しておられますが、コメントの中から一部引用です:
収束後に
「現状の憲法ではあれが限界だったのですよ。国民をみなさんを守るためにはもっと強制力のある権限が必要です。みなさんもそう感じたでしょう? 現在の憲法ではダメです。憲法に緊急事態条項を追加する必要があるのです!」
と言い出すことでしょう。
(参考:「新型肺炎「緊急事態の一つ、改憲の実験台に」 伊吹元衆院議長」緊急事態宣言前の現在において、「言質を取られている」国民のみなさまはそれに従いそうです。