プラス思考の「行動変容」と「コロナ後の世界(内田樹)」

パソコンの調子が悪く、このページは開けませんの表示が出てうんともすんとも・・・以前、一晩寝かせて?おくと直っていたので今回も時間を置くことに。その間に本屋大賞の「流浪の月」を読む。更紗と文。それぞれが誰かに捨てれら世間からは事実とも真実とも異なるストーリーで誤解されながら生きる二人。それぞれの欠落と優しさと、世間の常識と無理解の残酷。それらを通過して得た今と未来に幸あれと……さて、パソコンが元に戻っていたのでやり直し。一度書いたのが全部消えてしまいました。

◎月曜日は母の訪問医の先生の診察日。処方箋と母のお薬手帳を持って芦原公園を通り抜けることに。右手のオリーブグリーンの名前の分からない木。そのうち小さな赤い実が生ります。池のほとりに2,3本あったのですが、残念なことに1本が立ち枯れています。

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用水路沿いの小道の大木。二股の木、昔、父が木肌を大胆にアップして

撮った写真が市のカレンダーに採用されたことがありました。

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向こう(西)側に中央生涯学習センターの図書館とホールが見える。

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朝日新聞の12日(火)の「経済気象台」という小さなコラム。この日のタイトルは「行動変容の効果を出すには」でした。

より効果的に行動変容を促すには、悪いニュースではなく、自分もそうしようと思える良いニュースを流すことだと、行動科学では教えている。「外に出ない」ではなく、「在宅に協力を」、罰則よりも医療従事者や協力機関の奮闘を取り上げる、といったことだ。 

◎ この記事を読んで、思い出したことがあります。日曜ごとに再放送されている「初めて恋をした日に読む話」の東大出の商社マンの雅志の言葉。いとこで東大失敗の塾講師順子が生徒の匡平を指導するのに困っていた時、助言します:「人間の脳というのは否定形を理解できない。『遅刻してはダメ』ではなく、『5分前に来てね』と言えばよい」。なるほど否定されるのではなく、やってみようと前向きになれる言葉ですね。

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◎↑これも同じ日の新聞で、美術家の横尾忠則氏の寄稿です。

今年、神戸の横尾忠則現代美術館で始まった企画展は「兵庫県立横尾救急病院展」と題され、1月31日にWHOが世界に緊急事態宣言を出した翌日のオープニングには来客全員にマスクを配布、スタッフは白衣とマスクの一大演劇的パフォーマンスの演出だったとか。企画されたのは武漢で新型コロナウィルスの感染が発生する1年前

そして、大きな舌だしマスクの写真は横尾氏ご本人ですね。この写真は1968年ごろ撮影されたものとか。「アートはしばしば無意識に未来を顕在化させる予知的なエネルギーを秘めている」。この病院展は今は休館中。でも横尾氏は前向きです:

 そこで気づいたのはコロナを拒否してコロナから逃避するのではなく、コロナを受け入れることで、コロナとの共生共存を図る精神の力を絵画に投影させてマイナスエネルギーをプラスの創造エネルギーに転換させることでコロナを味方につけてしまい、この苦境を芸術的歓喜にメタモルフォーゼさせてしまえばいいのだ

 ◎芸術家の予知能力と前向きな考えにちょっと驚きます。横尾氏の現在制作中の作品は仏教の弥勒思想の千年王国を想起して浄土的理想社会を構想されているそうですが、やがて「完全な形」を迎える過程の現在はかなり厳しい試練があり、「メディアがコロナを空間的にとらえている発想から、絵画と同じようにコロナを時間的にとらえてみると、時間の中で知覚するのは文明の危機である。その真只中でコロナは人類に何を学ばせようとしているのかが見えてくるのではないだろうか」と結んでいます。

◎最後に、4月半ば過ぎにブログの下書きに置いたままになっていた内田樹氏の「コロナ後の世界」です。ぶり返しがあるかもしれませんが、いつかは終わり、「コロナ後」はやってきます。その時、私たちは何を学び、何を身に着けていることでしょう:

山崎雅弘さんがリツィート

岩田健太郎 Kentaro Iwata

@georgebest1969 4月22日

いろんな立場の人がお読みと思いますが、とにかく最後のカミュのところは全員必読。  コロナ後の世界(内田樹の研究室) 

カミュのところ、コピーです。 

―― カミュは有名な小説『ペスト』のなかで、最終的に「ペストを他人に移さない紳士」の存在に希望を見出しています。ここに、いま私たちが何をなすべきかのヒントがあると思います。


内田 『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならないその意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。

 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。
「紳士」にヒロイズムは要りません。過剰に意気込んだり、使命感に緊張したりすると、気長に戦い続けることができませんから。日常生活を穏やかに過ごしながらでなければ、持続した戦いを続けることはできない。
「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。