フェンスのバラと「全体主義の誘惑に負けない『今鍛えたい自由と権利と多様性』(想田和弘)」

◎先日、コーヒー豆を買うため車で千里中央へ向かうのに桜通りのバス道を通ったとき、北側の畑の中の大きなお宅のフェンスにバラが満開なのを見ました。帰宅して午後からカメラを持って散歩がてら出かけました。北側のパーゴラに絡ませたバラはピエールドロンサールでした。今年一番の見事なバラを見ました。写真を撮っていたら声をかけられました。お花見客がもう一人。個人のお宅ですか?と言われて、どうなんでしょうね、会社のような看板も出ていますが・・・と道路から写真を撮らせていただきました。 

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◎在米の映画監督想田和弘氏の【コロナ禍だからこそ鍛えたい!「自由」と「権利」と「多様性」】と題した記事をネットで見つけました。想田監督は、9・11の時も、また今回のコロナ禍では3月にニューヨークの自宅でコロナによる「自宅待機令」が出されるロックダウンも経験されています。ダイジェストで引用してみます:

ロックダウンのNY。あっという間に「自由」が奪われた

 9.11で実感したのは、死の恐怖に圧倒された人間は、いとも簡単に、個よりも全体を優先する「全体主義」に与(くみ)するし、凶暴にもなりうるということである。

 この原則をコロナ禍に当てはめると、世界の将来をあまり楽観していられない。

 そもそも新型コロナウイルスは、人々を分断するような特性を備えている。やっかいなのは、無症状な感染者が多くいるということだ。ウイルスが世界中に広まってしまった今、私たちはいわば全員が「潜在的な感染者」なのであり、したがってお互いがお互いを警戒せざるをえない。

〈山梨に帰省した女性〉の一件が示すもの

 いや、剥奪されているのは女性だけではない。この文章を書いている僕も、読むあなたも、バッシングする無数の人々も、それを報じるマスメディアの人々も、すべての人間が自由や権利を剥奪されているということだ。

 なぜなら先に述べた通り、私たちは誰もがいつ発症するのかわからない「潜在的感染者」である。したがって運悪く「陽性」と認められてしまったら、過去に帰省したりバーベキューをしたりゴルフ場へ行ったりしたことが掘り起こされて追及され、女性と同じように袋叩きにあい、社会的に抹殺されかねない。

 よほどの切羽詰まった事情がなければ、そんなリスクは怖くておかせない。だから、帰省もバーベキューもやめておこう。そう考える人が多いのではないだろうか。

 つまり私たちはすでに事実上、帰省もバーベキューも自由にできない状態に陥っている。まったく自由な市民ではなくなったのだ。

いつの間にか失っていた「基本的人権

 あらためて考えると、これは恐るべきことだ。

 別にクーデターか何かが起きたわけでもないのに、私たちはいつの間にか「基本的人権」を失っていたのである。

 もちろん、私たちの自由や権利は、そもそも無制限に行使できるわけではない。

◎パチンコ店が開店しているからと言って攻撃したり、『守らない人』に対して自粛警察などという言葉で表される落書きや嫌がらせや脅しの数々。「守りましょう」と言っても100%が守れるかと言えば、そうではないことを小中高の学校生活で体験してきましたので社会ってそんなもんだと思えばいいのに・・・と思っていたので、「ある程度の逸脱などは織り込み済みで…」という考えが嬉しかった:

「自由や多様性を守る」ということ

つまり「自由や多様性を守る」ということは、マスクをしない人も、バーベキューをする人も、同じ社会で暮らす仲間として尊重するということだ。尊重するのが心理的に難しいのなら、せめて糾弾したり排除したりしないということだ。そして自分たちの安全のためにどうしても行動を変えてもらう必要があるならば、その人の人権や生活が損なわれないよう、民主的な手続きを守りながら、理性的にお願いするということだ。

 

コロナ禍は正念場。「全体主義」の誘惑に負けないために

幸いなことに、新型コロナウイルスの致死率は比較的低く、かかったら必ず死んでしまうという病気ではない。ウイルスの流行が本当に収束するためには、ある程度の人口が感染・治癒して、社会に集団免疫がつく必要があるとも言われている。
 したがって社会としての目標は感染者をゼロにすることではなく、医療機関がパンクしないよう、感染のスピードを十分にスローダウンさせることにある。つまりある程度の「逸脱」や「不注意」や「エラー」は織り込んでいく必要があるのだ

◎全文はこちらで: