WEB面会と「小林カツ代さんの『終戦記念日によせて(2004年)』」

 
 
 
清水 潔
 
@NOSUKE0607
 
で、なんでパラリンピックやるわけ? 子供に観戦させるの? もうホラーだ。 小池知事は「コロナとの戦いが始まって以来、最 大の危機を迎えている。『医療非常事態』と位置付け、都として総力戦で臨む」と訴えた。
都議会臨時会は十八日開会し、小池百合子知事は所信表明で新型コロナウイルス対策について「コロナとの戦いが始まって以来、最大の危機を迎えて...

我が家で咲いているベゴニア三種

木立性ベゴニアの蕾、今週になって咲き出した秋海棠

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◎水曜日10時。ホームにいる母とのWEB面会の時間です。今回は初めてZOOMというアプリを使っての面会でした。10時きっかり、あらかじめ知らされていたナンバーを打ち込んで待機。10過ぎに画面に母とマスクをしたスタッフさん。こちらは夫と私の二人が映っています。母の画面とこちらの画面が横に並んでクッキリと。母の自室からのようでしたが、随分元気そうでまた元気な声でした。お互いに映っている顔を見ながら「元気?」「元気そう」「良かった」「良かった」ですが、母は東京と沖縄にいる二人の孫たちの事が気がかりで何度も「大丈夫?」と安否確認でした。

f:id:cangael:20210818174344j:plain 長く咲くベゴニアセンパフローレンス

いつもの面会時間は15分ですが、WEB面会はその倍の30分。途中でスタッフの女性はいなくなっています。何でもいいから喋ろうということで続行。妹から前回の面会と我が家での外構工事の仕上がり具合の手紙が来たらしくて、良くなったみたいだから今度は写真を持ってきてと言われました。前回夫がスマホの写真を見せたのですが印象に残っていないようです。印刷した写真で今度は渡すつもりです。絵葉書や目を洗うホウ酸を頼まれて、そろそろという頃、スタッフさんも来られて「場所はホールでなくてお部屋になったんですね」というと「そうなんです、各部屋で出来るようになったんですよ」とのこと。お互い手を振り合って「じゃ、退出します」と夫が。1日以来ですので2週間と少し。耳の遠い母のことですので、私たちの話も半分は通じなくて、時々大声になってしまいますが、母の文脈の中に引っかかりそうな単語が飛び込むとそこから話が繋がります。以前より元気そうで安心でした。

🔲山崎雅弘氏のツィッター小林カツ代さんのフェイスブックの記事が取り上げられていました。小林カツ代さん、大阪出身の料理研究家であり、エッセイストであり、生き方のお手本みたいな方でした。ハスキーボイスと元気な笑顔の私たちにとってはいい意味で『大阪のおばちゃん』でしたが、Wikipediaで:

小林 カツ代(こばやし カツよ、1937年昭和12年)10月24日 - 2014年平成26年)1月23日)は、日本の料理研究家エッセイストである。神楽坂女声合唱団創設者、団長]

料理研究家として、簡単ではあるが手抜きではない料理を研究、紹介しており、生涯で出版した著書は200冊を超える。また、台所用雑貨や食器のプロデュース、講演活動も行っていた

長男のケンタロウ料理研究家。選択的夫婦別姓制度実現をめざす民法改正運動を行っているmネット(民法改正情報ネットワーク)の呼びかけ人でもあった

経歴

1937年昭和12年)、大阪市で製菓材料の卸問屋を経営する一家に生まれた

幼少のころ父や母に大衆食堂フランス料理店、高級中華料理店、日本料理店に連れていかれたため舌は肥えていたという。しかし、子供のころは絵画漫画に興味を持ったため、母から料理を教わることは皆無であった

堀江国民学校(現・大阪市立堀江小学校)に入学したが、虚弱体質だったため、学校の授業はほとんど出ていない

1945年(昭和20年)大阪大空襲を体験、家が焼けたため、一家で堺市北区の旧家・筒井家の離れに移り住んだ。転校した堺市立百舌鳥小学校では成績優秀であり、戦後、一家が大阪市に戻ってからも電車通学で卒業まで通った

中学生時代には「漫画少年」に漫画を投稿していた。当時の投稿仲間には石ノ森章太郎がいる。その後、帝塚山学院短期大学を卒業した。同校では国文学を専攻している

21歳の頃、結婚して専業主婦となったが料理の腕前はからきしひどいものであった。小林が夫に初めて作ったみそ汁は、水にみそを入れ、もどしていないワカメを放り込んだものである。その後、小林は一念発起し母、青果店鮮魚店、近隣住人などの料理上手な人から教えられ、料理の腕を上げていくこととなる

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1963年(昭和38年)ごろ、テレビワイドショーへの投書がきっかけとなり番組に出演し料理を披露した。これにより料理研究家としての活動を開始することとなり、大阪ローカルのレギュラー番組を持つほどになった

1968年(昭和43年)に夫の東京転勤に伴い、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)に引っ越した後、東京・日比谷にあるデザイン学校に入学するも、すぐに廃校となってしまう。また1970年(昭和45年)にはエッセイストとしてのデビューも果たし、同年発表した、デザイン学校での出来事をつづった『ミセス漫画学校へ行く』はNHK銀河ドラマてんてこまい」の原作となった

以降、多数の料理本エッセイを著作した。小林は1979年(昭和54年)から26年に及び、「きょうの料理」をはじめとするNHKの料理番組に出演料理研究家として広く認知されることとなった。また、都内で生活雑貨店や喫茶店も経営しており、1990年平成2年)には小林がデザインした家庭料理の器「kiai」がグッドデザイン賞を受賞している

1994年(平成6年)、料理人が対決するテレビ番組『料理の鉄人(フジテレビ)に出演した小林は、ジャガイモをテーマにした料理で鉄人、陳建一に勝利した

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1995年(平成7年)に阪神大震災が発生すると被災者支援を行っている

2000年(平成12年)には英語版の料理本『The Quick and Easy Japanese Cookbook』がグルマンの最優秀賞を受賞した。

晩年は大阪信愛女学院短期大学客員教授を勤めていた

頼まれたら断れない性格と、高齢にもかかわらず過密なスケジュールを組んでまでも活動を欠かさなかったことが災いし、2005年(平成17年)8月にクモ膜下出血を発症。その後は活動の第一線から退いて入院療養を続けていたが、2014年平成26年)1月23日に多臓器不全のため逝去。満76歳没(享年78)

思想・信条

政治的には日本共産党の支持者であり、元衆議院議長土井たか子とは親友であった。共産党支持者となったのは、学生時代の交際相手が共産党員であったことを「怖い」と感じて別れたものの、それを母から「共産党は戦前唯一侵略戦争に反対した政党だ。それが怖いわけがあるか!」と叱られたことだったという

2005年3月、「マガジン9条」発起人のひとりとなった。

🔲それでは、ツィッターと「終戦記念日によせて」の記事を:

 
 
 
山崎 雅弘
 
@mas__yamazaki
 
 
料理研究家小林カツ代さんの、二年前のフェイスブック投稿。 少し長いですが、一読の価値ありです小林カツ代さんのお父さんも、日本軍の一人として中国へ送られました。そこで、何があったかfacebook.com/permalink.php?
 小林 カツ代 -お知らせ

終戦記念日によせて

小林カツ代
「キッチンの窓から見えるもの」

《キッチンから戦争反対》


私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。


父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。
「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。


まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。
同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。
でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。


戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。
残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。
けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。

 

ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。
父も、その上官も、もう亡くなった。
私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。
だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。

 

2004年8月28日
須坂市メセナホールにて
第6回信州岩波講座での講演要旨

2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載