東京五輪の後で「競技だけやればいい時代は終わった(平尾剛)」(プレジデントONLINE)

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2021年9月1日
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9/30まで無料公開「新型コロナ 自宅療養完全マニュアル」 - キニナル 〜見てきた事や聞いた事〜 (hatenablog.com)

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🔲元ラグビー日本代表平尾剛さんの東京五輪「まとめ」です。「五輪そのものやIOCJOCに文句を言っても五輪選手(アスリート?)を悪く言うのは筋違い。彼らは競技に参加して戦うのが本分だから」という意見もありましたが、本当にそうだろうか?それで済ませられるのだろうか? 選手も社会人、一言あってしかるべきでは?という疑問もたくさん湧いた五輪でした。4年に一度の五輪ですので(次回は3年後だけど)しっかり考えておきたいと思って全文コピーです。スポーツに携わっている方たちに読んでほしい内容です:

 
 
 
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@rao_rug

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「ファンの皆様に感謝」定型コメントばかりのオリンピアンに元ラグビー日本代表が感じた強烈な違和感の正体 

競技だけやればいい時代は終わった

今回の東京オリンピックパラリンピックの開催にあたり、スポーツ界の当事者はいったいどう受け止めたのか。元ラグビー日本代表で神戸親和女子大教授の平尾剛さんは「現代アスリートはただ競技だけすればいいわけではない。自身の言葉を持ち、発信しなければ、都合よく政治家の『スポーツウォッシング』に利用されるだけだ」という――。

元アスリートが五輪廃絶を訴える理由

東京オリンピックパラリンピックが閉幕した。大会前の開催の是非をめぐる喧騒がまるで嘘だったかのように静かだ。「五輪批判」は背景に退き、世間は新型コロナウイルスの感染対策に手一杯となっている。

すでにご存知の方もいるだろうが、私は一貫して東京五輪に反対の意を示してきた。東京五輪の中止とともに五輪そのものの廃絶を呼びかけてきたし、いまもその意思は変わらない。

元アスリートなのになぜ反対しているのか。それは道義に反することではないか。スポーツの恩恵を受けた身でありながら、その祭典である五輪を批判するのは恩知らずだろう――。

ツイッターのアカウントにはこうした声が相次いだ。スポーツ界から声を上げた数少ないひとりとして、その勇気を称賛する声が大半を占めたものの、一部では「身のほど知らず」という心ないことばが届けられた。社会的な発言に賛否はつきものだから反論を賜るのは致し方ない。

元アスリートの私が東京五輪の中止を訴え、五輪の廃絶を呼びかけるのはなぜか。

それは「スポーツがいいように利用されているのを見過ごせない」からである

権力者が都合の悪い事実を隠す「スポーツウォッシング」

1992年のバルセロナ五輪に出場経験がある元サッカー選手で、米国パシフィック大学教授のジュールズ・ボイコフ氏は、五輪反対論の第一人者である。ボイコフ氏が批判する論点のひとつに「スポーツ・ウォッシング」がある。これは「スポーツイベントを使って染みのついた評判を洗濯し、慢性的な問題から国内の一般大衆の注意を逸らす」ことを意味する。私なりに言い換えると、政府や権力者が自分たちにとって都合の悪い事実をスペクタクルへの熱狂で覆い隠すことを指す。さしずめローマ帝政期における愚民政策のモットー、「パンとサーカス」を彷彿とさせる指摘である

奇しくもこの批判が正鵠を射ていることを、ある発言が立証した。

開幕してまもなくの7月、自民党河村建夫官房長官は「東京五輪がなければ国民の不満がわれわれ政権に向く」という趣旨の発言をし、日本代表選手が活躍すれば次期衆院選に向けて政権与党への追い風になるとの認識を示したのである。

五輪の政治利用を、これほどあからさまに公言した例を私は寡聞にして知らない。「一般大衆の注意(不満)を逸らす」ために五輪が必要だという本音を記者に吐露する脇の甘さに驚くとともに、出場選手への敬意が微塵も感じられないその口ぶりに怒りを禁じ得なかった。

むろん、いまさら五輪が政治と切り離されているなどと信じてはいない。西側諸国がボイコットした1980年モスクワ五輪を挙げるまでもなく、歴史をたどれば五輪はすでに第1回大会から政治的だった。それでもなお憤るのは、なんの衒いもなく記者に口走るその軽率さである。少しでもスポーツに敬意を抱いているのであれば、建前を口にするはずだ。

平たくいえばスポーツは舐められている表向きには美辞麗句を並び立て、その裏では政治的な意図を働かせてスポーツを隠れ蓑に粛々と政治家は活動する

不祥事や失敗だらけだった東京五輪

思い起こせば東京五輪は、その招致が決まったときから不祥事続きだった。

東京招致が決まった国際オリンピック委員会総会で、当時の安倍晋三首相が口にした「アンダーコントロール原発事故は完全に制御できているという意味)発言の虚偽。フェアネスを理念とするスポーツイベントが嘘によって招致されたというアイロニーは、笑うに笑えない。

大会招致委員会から2億円超の大金がシンガポールのブラック・タイディング社代表イアン・タン氏に支払われたとされる贈賄疑惑。当時の招致委員会理事長、竹田恒和氏はいまもフランス司法当局の捜査を受けている

打ち水朝顔、頭にかぶる日傘、さらには会場周辺に立つビルのドアや窓を開放して建物内の冷風を送るというあまりに非現実的な暑熱対策には、開いた口が塞がらなかった。水質が悪化し、トイレ臭が漂う台場海浜公園にその改善策としてアサリを投入したことにも唖然とした。

森喜朗氏が女性蔑視発言により大会組織委員会会長を辞任したのは、開幕を控えた今年の2月。開閉会式の演出チームをめぐってはトラブル続きで、お笑いタレントの渡辺直美氏をブタに見立てる「五輪ピッグ」を企画したクリエイティブディレクターの佐々木宏氏が辞任。さらには開会式の楽曲制作を担当する小山田圭吾が過去のいじめ問題によって、また開閉会式の制作チームのショーディレクター小林賢太郎が過去にユダヤ人に対するホロコーストをネタにしたとして、開幕直前に辞任した。

直近では大会期間中に運営スタッフ用の弁当13万食以上と、未使用のマスクや手指消毒液など総額500万円相当の医療用備品がともに廃棄された事実が明らかとなった。食品と医療用備品は生きるための必需品だ。とくにコロナ禍で未来への見通しが立たないいまはそれらを必要とする人がごまんといる。なのにあっさり捨ててしまうのは言語道断の愚行としかいえない。

あまりのひどさに書き連ねるのがいやになるが、挙げていけばキリがないのでこれくらいにしておく。

それにしてもよくぞここまで不祥事を積み重ねられたものだと、呆れを越えて感心する。なにをするにおいても次から次に失敗だけを選択し続けるのはそう容易ではないからだ。本来なら、同じ失敗を繰り返さないようにその原因を究明するはずだが、それをしない。失敗の連鎖は原因の究明なくして防げない。

「開催さえすれば洗い流せる」という楽観論

なぜ失敗の原因を究明しなかったのか。その理由が私にはひとつしか思い浮かばない。

そもそも最初からきちんと運営しようという意思がなかった、というのがそれだ。先の河村氏の発言が象徴するように、開催にこぎつけさえすればスポーツでウォッシュできるという楽観が、五輪に関わる組織全体に横溢していたように思える

先に述べた数々の暑熱対策はどう考えても場当たり的な対応だし、マラソン競技の会場を札幌に変更したのもそうだ。そもそも7月末から8月にかけての開催時期が屋外でスポーツをするのに適した気候でないことは誰の目にも明らかで、気温も湿度も高いこの時期でのアスリートのハイパフォーマンスは望むべくもないにもかかわらずこの時期の開催に至ったのは、放映権を有するNBCへの配慮だといわれている。招致決定以降、関係者が繰り返した「アスリート・ファースト」の理念は最初から絵に描いた餅だった。

また、開閉会式のチームスタッフをめぐる辞任騒動も、その人物が適任かどうかの身辺調査を怠ったがゆえに生じたといえる。ネットで検索するだけで事足りるのにそれをしない。ここには、中身はともかく式を挙行できさえすればいいという目論見が透けてみえる。

弁当と医療用備品の廃棄は、再利用するための手続きの煩わしさに、規約に則るという杓子定規な理由を用いて為されたとしか考えられない。人道に反する行為だとわかりながらも廃棄したのは、たとえ批判されても大会終了後しばらく経てば忘れ去られることがわかっていたからだ。

失敗すれば後がないと考える人はツメを誤らないが、失敗しても最後には帳消しになると考える人はツメが甘くなる最終的にアスリートの卓越したパフォーマンスによって洗い流される。それが無意識的にわかっているから、これだけの不祥事が起こり続けたのである。

五輪開催で犠牲になる人たち

スポーツ・ウォッシング」ありきのこの五輪体質はなにも今回の東京五輪だけにとどまらない。歴代の五輪でもさまざまな不条理が置き去りにされた。

なかでも注視すべきなのは「社会的弱者の排除」である。

東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』は、新国立競技場建設にともない立ち退きの憂き目に遭った人たちを追ったドキュメンタリー映画である。平均年齢65歳以上の住民が暮らすこの高齢者団地には単身で暮らす者が多く、何十年ものあいだ助け合いながら共生してきた。2012年7月に東京都から移転を要請する一方的な通知が届き、住民は転居せざるをえなくなってコミュニティは失われた。ささやかな老後を失われた住民の悲痛なまなざしが画面を通して突き刺さる。

2008年の北京五輪でも、150万人が適切な補償金が支払われず立ち退きを余儀なくされた。強制退去に異議を唱えた人々には、「労働による再教育」という名目で告訴なしに収監する刑が下されもした。また2012年のロンドン五輪では、五輪のための再開発による家賃の上昇に直面し、その地に長らく住んでいた人々は転居せざるをえなくなった。2016年のリオ・デジャネイロ五輪では、貧困地域への社会福祉活動や子どもたちへの教育活動などが行われていたマラカナン競技場が、開催にともなって取り壊された。

競技会場や選手村など関連施設の建設予定地ならびにその周辺では、以前からそこに住む人たちの人権が蹂躙されてきた。とりわけ社会階層の下に位置する人たちに顕著である。馴染みの店に通えなくなる、近所づき合いが断たれて友人や知人と離れ離れになる、福祉や教育の場を失う。こうして「居場所」を奪われた人たちは、どのような思いでいまを生きているのだろう。少なくとも五輪への反感を抱いているのは間違いない。それが転じてスポーツに向かっているとすれば、元アスリートしてこんな悲しいことはない。

声を上げたくても上げられない人たちの悲痛さをも、五輪はことごとく洗い流す。この現実に、そろそろ私たちは向き合わなければならない。とくにその当事者たるアスリートおよび元アスリートはそうだ。自らが立つ(立った)輝かしい舞台の裏側で繰り返される目を覆うほどの不条理に、目を向けなければならない。特別扱いされるのをいいことに、社会から隔たったところで粛々と活動するのがアスリートの役目ではないこれ以上、社会に背を向けることは許されない。

スポーツが利用され、その裏では目を覆うような不条理を生んでいる。この現実を見ようともせず、ひたすら沈黙を続けるのであれば「加担者」としての謗りは免れないだろう。

“だんまりを決め込むアスリート”に反発する国民

東京五輪の開催をめぐっては一部の心ない人たちがアスリートおよび元アスリートを非難した。開催前の5月に水泳の池江璃花子選手は、自身のツイッターで出場辞退や反対の声を上げるよう求めるメッセージが届いていることを吐露した。また、社会に向けてメッセージを発する数少ないアスリートである体操の内村航平選手の発言には、そのたびに賛否が巻き起こった。

もちろん誹謗中傷は許されない。絶対に容認してはならない。だが、批判したくなる気持ちはわからないでもない。アスリートおよび元アスリートが社会に対して何を思い、どのように考えているのか、彼らはおそらくそれを知りたいと望んでいたのだ。内村選手をはじめ発言を厭わないアスリートは少数ながらいるものの、スポーツ界全体として「だんまり」を決め込むその態度に異議申し立てをしたのだろうと思う。

アスリートおよび元アスリートもまた社会で生きるひとりの人間だというなら、この申し立てに応える義務がある。そのためにはことばが必要だ。パフォーマンスだけでなく社会に向けたことばが。パフォーマンスのみならずその一挙手一投足が社会に多大な影響力を及ぼすトップアスリートはとくに、それにふさわしいことばを持ち合わせなければならない。

イメージ戦略として積極的にSNSを活用するアスリートが増えているいまなら、そこで発言することだってできるはずだ。SNSは、その取り組み方次第で社会の動向を知るためのツールとしても役立つ。ジャーナリストや研究者をフォローすれば専門的な知見はもとより、日々の何気ないつぶやきからその人物の考え方にも触れられる。医療や教育や福祉、また国内外の紛争地や被災地などそれぞれの現場で奮闘する方々の経験に裏打ちされた声からは、社会や世界の一端を知ることだってできる。ダイレクトメッセージで直接やりとりすれば、こうした方々とリアル社会での直接的な交流が始まることだってある。

発信するだけでなく受信すらもできる双方向的なメディアを自前で作るそのつもりでSNSを活用すれば社会とつながる回路が作られ、そこでことばは磨かれると私は思う。

アスリートは自身の影響力を競技以外にも向けるべき

このたびの東京五輪で気になったのは、アスリートによる試合後のコメントがいささか定型的だったことだ。開催に尽力された大会関係者や支えてくれた家族や知人やファンに対する感謝を口にしていたものの、このコロナ禍で身を削りながら奮闘する医療従事者をはじめとしたエッセンシャルワーカーへのそれがほぼなかった。「復興五輪」を掲げたのであれば、東日本大震災などの災害による被災者に向けたことばもあって然るべきだった。もしかすると「みなさん」という括りに含まれていたのかもしれない。だが、宛先が明確でない感謝はしばしば拡散して、伝えたい人には届かない。こうしたことば遣いもまた身につける必要があるだろう。

この東京五輪パンデミックの最中に開催された、稀有な大会である。1年の延期を余儀なくされ、開催すらも危ぶまれるなかで、出場選手は心身のコンディションづくりに苦心したことは想像に難くない。陰には延期されたことによって出場を逃し、やむなく引退を決意したアスリートもいた。元アスリートだからこそ彼らの苦悩は手に取るようにわかる。

競技への集中は、大会の規模が大きくなればなるほど難しい。現役時代を振り返ると、私はたとえ恋人や家族であっても集中が途切れるからと大会期間中は遠ざけるほどだった。ましてや開催への反対論が渦巻くこのコロナ禍である。批判や非難など集中を阻害する「雑念」は拭い難かったに違いない。「雑念」に翻弄されながらも、コロナ禍で自粛が強いられる社会を自らのパフォーマンスで元気づけようとしたアスリートには、あらためて敬意を表したい。

その上であえて苦言を呈すと、スポーツは観る者を魅了する、社会をエンパワーメントできる、感動や勇気を「与えられる」とまで思っているのなら、その影響力をなぜパフォーマンスに限定したのか。もう一歩踏み込んで、社会に対するメッセージを発しようという気にはならなかったのだろうか。

当たり前だがスポーツでコロナ患者は治療できない。スポーツでは生活の困窮に喘ぐ者を救えない。スポーツがエンパワーメントできるのは観戦する余裕がある者のみで、そこから弾かれた人には届かないという現実がある。それを直視すべきだった。なにより指導者や関係者など周囲にいる人がそれを注視するよう促すべきだった

能弁でなくてもいい。ためらいがちに訥々とことばを継いだって構わない。聴く者はその余白からをもメッセージを読み取る。だからアスリートは社会に向けて恐れずにその胸の内を語るべきだったその心意気を、多くの人は待ち望んでいたと私には思われる。

これからのアスリートはことばを持たなければならない

ここで元アスリートの私は立ち止まる。現役時代の私はことばを持ち合わせておらず、適切なことばづかいもできていなかったからだ。

もちろん社会も見えていなかったそれを教えてくれる人も周りにはいなかった。いや、そもそも教わろうともしていなかった。パフォーマンスを最大化して試合に勝つことだけを目的に、ただただ楕円球を追いかけていた。

スポーツにまつわる不条理、たとえばレギュラーにならなければ意見を口にするのはおこがましいとか、痛みに敏感でからだの違和感を事細かに訴えるのはメンタルが弱いからだとか、苦痛に耐えることこそが上達への近道だとかには薄々感づいてはいたものの、それを掘り下げようともせずどうすればいいのかわからないまま時間を浪費していた。あたかもそれらが疑いようもない自明なことであるかのように捉えている人たちからの同調圧力に抗えず、自らの意見を積極的に発信するなど思いもよらなかった

そう、かつての私はスポーツ馬鹿だった。だからこんな正論を吐く資格はないかもしれない。かつての自分が果たせなかった思いを押しつけているだけなのかもしれない。そう自省し、厚顔無恥を承知でなおもこうして主張するのは、スポーツの未来を健やかにしたいからである。

もし過去に戻れるのであれば、あのときの未熟な私に言ってやりたい。

社会を知れ。見識を高めろ。ラグビーだけやってたらダメだ。これからのアスリートはことばを持たなければならないんだ。さもなければいつまでもスポーツは利用され、その陰で社会的弱者が排除され続けるスポーツの未来が健やかになるように努力をしろ、と。

政治利用され続ければスポーツの価値は暴落する

五輪への幻想が霧消したいま、スポーツそのものの価値が大暴落しているように私には思われる。本来のスポーツは愛好者の心身に健やかさをもたらし、選手に成長を促すものだ。なのにいまは競争主義の過熱や商業主義への偏りによって、特別な権利を持つ一部の人たちしか満足を得られない娯楽として消費されている

限定的で娯楽的ないまのこのスポーツが阻害する人たちのそこはかとない気配を、元アスリートの立場からはやはり無視することができない。なんとかして価値の下落を押しとどめて再びそれを高め、スポーツに振り向いてくれる人を増やす。そのために私はうしろめたさを振り切って声を上げ続けたい。

これ以上の政治利用を、そして社会的弱者の排除を、許さない。

スポーツマンシップに則り、フェアネスを重んじるスポーツ経験者ならばこのことばを口にできるまでには成熟して欲しい。そう切に願う

神戸親和女子大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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