☆話題になれば当然批判も出てきます。森友問題の改竄・隠ぺいを見逃す人たちがドラマに「左翼」というレッテルを貼って非難・攻撃しているのは、当然無視して、今日はツィッターで拾った「新聞記者」批判を並べてみます。その前に「森友学園問題を考える会」のツィッターから2つ。署名未だの方は是非「change.org」をクリックして署名をお願いします:
★まず最初にジェンダー観についての批判です。日本のジェンダーギャップ指数は156カ国中、120位なので、日本の遅れているジェンダー問題がこのドラマに反映されているのなら、それはそれで日本のリアルな姿を伝えていると評価できるのではないかと思わないでもありませんが。
ドラマを通してこの日本で起きた現実を改めて振り返れば、日本の政治が民主主義政権どころか独裁政権のありさまであることを突きつけられる。なぜ今も自民党政権が続いているのか、なぜ責任者は誰も処罰されなかったのか、そのことのおかしさが際立つのだ。地上波では恐らくできなかったであろうドラマが、赤木さんの死を風化させず真相究明が必要なのだという声につながるようになったらいいと強く思う。
一方で・・・なのだが、本当に残念なのは、このドラマが韓国ドラマのようには世界で観られないし話題にもならないだろうな・・・と思えてしまうことだ。エンタメとしては、Netflixに無数にある世界に通用するドラマとしての魅力が薄く、国内の地上派規模の内向きドラマに見えてしまう。
その大きな理由を私は、脚本や演出のジェンダー観にあると感じる。このドラマ、ほぼ男目線でしか描かれていない。脚本家三人が全員男性で、制作者のほぼ大半が男ということも関係あるのだろうか。半沢直樹的な昭和感が強く、女性の葛藤や存在にリアリティがない。人物の厚みが薄いのは、ジェンダー観の薄さとつながっているようだ。Netflix「新聞記者」をジェンダーの視点で観ると・・・半沢直樹と変わらないのでは。日本のドラマの限界と性差別が平常運転の辛さ。 by 北原みのり|LOVE PIECE CLUB(ラブピースクラブ)
★次は「新聞記者」関連のツィッターで見つけた方のツィートでした:
「note」から一部をコピーです:(下線by蛙)
赤木雅子さんはまだ真実を求めて闘いの真っ只中にいらっしゃいます。
法廷の場でもまだ真実が明らかとなっていない森友問題がモチーフ。当事者遺族が「事実歪曲」と協力拒否しても制作強行。赤木俊夫さんが嘘を拒んで自死を選んだ御方であるからこそ、問題提起型のドラマ制作ならば事実に誠実であってほしかった。
皆がドラマに熱狂すればするほど何重にも当事者を苦しめることになってはいないかと心配でたまりません。
もちろん皆の記憶から無くなるよりは、カタチにのこすアプローチが幾重にもあることには賛成です。ただし、事実に忠実であることが前提条件。
思い出してください。ドラマ『半沢直樹』の勧善懲悪に熱狂したはずの日本列島の投票行動に変化があったとは到底いえません。
この国の根幹を揺るがした問題をエンターテイメントとして一時的に消費するだけに終わってほしくはありません。熱狂はいつかは冷めるときがきます。熱狂特有のコワさもあります。
★文春オンラインを読んだ町山智弘氏のツィートです:
★事実とフィクションについて神大の岩田氏のツィートです:
☆ドラマ「新聞記者」を観た私からすると、このドラマは郡司さんが書いておられ様な「ただ、望月氏だけを『正義のために闘う新聞記者』としてカリスマ化、偶像化?権力対峙のアイコン?とすること」にはなっていない。望月さんをモデルとした米倉涼子さん演ずる女性記者は、米倉さん自身がインタビュー記事でも発言しておられるように、それぞれの人物に寄り添い出会いを導く役割を担っているだけで、本人自身も不正を告発した兄が植物人間になって深く傷ついている、かなり暗い人物になっています。
27日発売された「週刊文春」も読みましたが、当事者である赤木雅子さんが「今年1月、ドラマ版を視聴した赤木さんはショックを受け、『夫と自分の人生を乗っ取られた・・・』という思いでおられることはとても残念です。最初、配役されていた小泉今日子さんは「仕上がった台本をすべて読み込み、衣装合わせも終え、…やる気満々でした」とあるので、台本のせいでもなく、「赤木さんの了承を得ること」が条件で、河村氏から「残念ですが、辞退してください」と告げられたと書かれています。
涙がにじんだ遺書はテレビやSNSや新聞で公開されていたし、遺書も公開(文春が最初だった?)されていたし、相澤冬樹氏の描き方で「ある程度の演出も理解できるが、遺書公開の過程や裁判に関わる根幹部分は変えないでほしい」のあたりかも知れませんが、これは映像作品がドキュメンタリーかフィクションかに関わる問題。ともかく文春の書き方は対立を煽る書き方で、一体だれが喜ぶのかと思います。
赤木さんの、一時はとても親しく「自宅での取材や写真撮影を許可した」仲の望月記者に対するその後の女同士の感情的な行き違いや不信感、製作者サイドとの間に入った河村プロデューサーの説得が上手く双方に通じなかったという事だと思います。かといって、ドラマが制作され、配信されてたくさんの人たちが観て今一度森友問題とは何だったのかを知ることは、良かったのではないかと思います。郡司さんの書いておられるように、私も一時の『熱狂』で終わってほしくありません。
☆ドラマ「新聞記者」最大のフィクションは私は綾野剛さんが演じた昭恵夫人側近の官僚だと思います。谷査恵子さんがモデルで、谷さんは佐川氏が書き換えを認めて辞任した直後栄転(国外逃亡?)でイタリアへ赴任しました。ドラマでは綾野剛さんが、自分が森友学園を総理の御意向といってごり押ししたことを悔いて、内調へ移ってからも悔やみ続け罪の意識にさいなまれ瘦せ衰える姿を好演しています。そして、松田(米倉涼子)と知り合って目覚め新聞記者になった木下亮(横浜流星)と会うことになり、亮から官僚になった動機を問われ「ここから僕たち変わりませんか?」と声を掛けられたことが切っ掛けで、告発の意志を固めます。
ここが最大のフィクションであり、私は藤井監督はロマンチストだと思います。現実は今のところ、官僚の中から事件の真相を語る人はなく、佐川氏一人に罪を押し付けて、その佐川氏も賠償責任を免れています。安倍元首相を忖度した人たちはみな栄転して生活を保障されています。それなのに、官僚も国を思う気持ちは同じ、悪いことをするにはそれなりの葛藤があったはずだという藤井監督の描き方はとても甘く見えますが、そう思いたいという気持ちは分かります。官僚の中から同じように告発に踏み切る村上(綾野剛)が一人でも続いて出て欲しいという願いに賭けるのはロマンだと思います。
★藤井監督の言葉を紹介(TVBros.2月号)
―――映画版から本作まで2年以上経ちましたが、政治は変わっていない状況です。本作ではまた違うメッセージを込めましたか?
藤井:映画では”落葉”を民意としてのメタファーにしましたが、今回は、映像的なメタファーは余り用いませんでした。ただ、萩原聖人さん演じる松田のお兄さんが、”声”の一つのメタファーだと言えます。植物状態の彼は”声”が出せない。僕たちはよく考えないまま、社会と自分を切り離してしまっているところがある。「選挙に行っても何も変わらない」という空気は、20代では仕方がないかもしれない。その意味がきっと本質的には理解できていないから。だから政治家が汚職事件を起こしても、遠い国の事件と同じ感覚でいる。
でも、そういう人間が一人でも減るために、今日何かアクションを起こしたから明日変わるということはないが、それでも、アクションを起こし続けることが大事なわけで。いろんな人たちが声に出すことを20年続ければ、世の中はどうなるのか。もしかしたら依然、変わらないかも知れない。でも我々のような文化に従事する者たちはそこで諦めてはいけないと、映画版を撮ったあたりに感じ始めました。右も左も真ん中もなく、ただ自分たちの子どもが幸せになってくれるために行動する。それは、決して間違えていないと最近、思うようになっています。
★東洋経済オンラインの記事で、藤井監督が「新聞記者」で描きたかったテーマについて語っています。森友問題を描きながら、新聞記者とアルバイトの就活生と官僚の三者を絡めて描く壮大なフィクションを構築したというわけですが、その描き方で共感を得て反響を呼んでいるのは確かだし、一方、当事者には当事者の譲れない言い分があるし、かといって、この作品が世に出なかった方が良かったとは思えないし…と私も町山氏とおなじように「う~~ん」とうなってしまいます。