オモニの島 わたしの故郷〜映画監督・ヤンヨンヒ〜
初回放送日: 2022年10月30日
映画監督ヤンヨンヒさんは朝鮮半島と日本の歴史のうねりの中を生きる自分の家族を描いてきた。母親にカメラを向けた最新作「スープとイデオロギー」に込めた思いを聞く。 ヤンさんの母親は南北分断が進む1948年に韓国済州島での大虐殺「4・3事件」を生き延びて日本に来た。北朝鮮の理想を頑なに信じ、ヤンさんの兄たちも”帰国事業”で北に渡った。ヤンさんのカメラがそこに秘められた思いを明らかにしてゆく。「私は北朝鮮も総連もタブーにしない。私は”腫れ物”じゃないことを人生をかけて伝えてきた」と語るヤンさんの過去の映画作品もたどりながら、家族と国家に向き合い続ける姿を描く。
在日コリアン2世ヤン ヨンヒに密着「オモニの島 わたしの故郷」ETV特集で放送 - 映画ナタリー (natalie.mu)
在日コリアン2世としての実体験をもとにした劇映画「かぞくのくに」で知られ、2022年にはアルツハイマー病を患う母親にカメラを向けた「
スープとイデオロギー」を発表した ヤン ヨンヒ。「スープとイデオロギー」では母の消えゆく記憶をすくい取りながら、日本と北朝鮮に引き裂かれた自らの家族の半世紀、済州4・3事件で壮絶な体験をした母親の半生を見つめた。ETV特集では映画を作ることで自分と家族に向き合ってきたヤン ヨンヒに密着。その心の軌跡を捉えた。
◎1月21日に放送された番組を録画して見ましたがとても素晴らしい内容でした。
昔は、阪急電車の急行は石橋から大阪梅田までの間で停車する駅は十三(じゅうそう)だけでした。十三で降りると黒いスカートに白い上着の制服、チマチョゴリ姿の女学生をよく見ました。十三か、あるいは京都線のどこかに北朝鮮系の学校があるのかなと思っていました。大学生になった時、何かの集まりで朝鮮のカラフルな民族服姿の方達の集まりを見たことがありました。
その後、ヨーガ仲間のお一人で、昔、桃谷に住んでいて、色んなものを売っている朝鮮市場を案内するからと言われてヨーガの後、何人かでついて行ったことがありました。環状線の鶴橋駅で降りて、少し行くと、京都の錦市場みたいな賑わいの商店街がありました。それが有名な猪飼野のコリアンタウンでした。布団屋さんやチマチョゴリのウェディング衣装や、乾物、漬物、刃物屋さんまで何でもそろっていました。
番組の主人公、ヤン・ヨンヒさんはここ桃谷出身。北への帰国事業で北朝鮮に渡ったヨンヒさんの兄、クラシック音楽が好きだというお兄さんのたどったその後が凄すぎました。手元にその番組について書かれた朝日新聞の「テレビ時評」というコラムの切り抜きがありますので、感想代わりに書き移してみます:
ヤン・ヨンヒさんの人生 大島新
なんという壮絶な人生なのか。なんという強い女性なのか。1月21日に放送されたNHK ETV特集「オモニの島 わたしの故郷~映画監督・ヤンヨンヒ~」を観終わったあと、しばし呆然とした。大阪・鶴橋で在日コリアンとして育ったヤン・ヨンヒさん。2022年、監督した映画「スープとイデオロギー」が公開され、日本や韓国で映画賞を受賞した。
番組ではヨンヒさんの半生と、映画監督としての歩みが丹念に描かれる。彼女が一貫して取り組んできたテーマは、「国家に翻弄される家族と自分」である。1970年代、帰国事業に寄って3人の兄が北朝鮮に渡ってから彼女の苦悩が始まる。デビュー作の「ディア・ピョンヤン」(2005年)では、朝鮮総連の幹部だった父親と自分の葛藤を描いた。北朝鮮への疑問を隠さなかった同作は国内外で絶賛されたが、ヨンヒさんは北朝鮮に入国できなくなる。心配する周囲からは「兄が収容所に送られてもいいのか」と問われ、思い悩む。その時の心境を彼女はこう語る。「じゃあやめますとは言いたくない。それで口封じをしてきた。そういうのを本当に終わりにしたい」
番組後半で語られた「北朝鮮を腫れ物にしたくない。私は腫れ物になりたくない」という言葉は、ヨンヒさんの魂の叫びだ。深い悲しみと怒り。それが彼女を突き動かしてきた。それでいて、彼女には果てしない愛がある。国家に翻弄されながら必死に生きている人たちの存在をなかったことにしたくない、と次回作の構想を語る。ヤン・ヨンヒさんという表現者が同時代に存在していることに、感謝したい。
(ドキュメンタリー監督)
◎つくづく南北に直線で国境線が引かれる民族の悲劇を思いました。
全体主義国家の怖さ、民主主義国家、色々問題は抱えていても、の有難さも身に染みて。だからこそ、黙っていないでおかしいものはオカシイと、駄目なものはダメと言い続けないといけないとも。