河村光庸プロデューサー遺作の藤井道人監督・横浜流星主演「Village」を観て・・・

プロデューサーの河村光庸(みつのぶ)さんが亡くなられたのは、昨年、映画「ヴィレッジ」のクランクアップを見届けた直後の6月でした。その後、秋になって、この映画のチラシが2種類発表されました。一つは茶系統のもので、薪能に能面をつけた村人の行列を背景に主演の横浜流星さんが正面から上目遣いに見つめている写真。もう一つはブルーグレイの霧の中で無精ひげとぼさぼさ頭の横顔の写真。どちらも死んだような虚ろな目です。「えっ、こんな映画なの⁉」と驚くと同時に、映画全体を表すのに、こういう表情の横浜流星さん一人に賭けている大胆さとその覚悟にも驚きました。

と、書き始めたところで、木曜の夕方に飛び込んだビッグニュース! 放送開始百年に当たる2025年のNHK大河ドラマは江戸時代(1700年後半)のメディア王、蔦谷重三郎が取り上げられ、演じるのは横浜流星さん! 脚本は「おんな城主 直虎」(17年)の森下佳子さん。タイトルは「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(つたじゅうえいがのゆめばなし)」だそうです。

日本アカデミー賞新人賞の授賞式で司会の石坂浩二さんに「いずれ時代劇、大河ドラマにも出たい」と公言してから3年です。日頃からの真摯な精進の賜物。NHKの制作者から ”一緒に仕事をしてみたい”と言われる俳優さんになりました。

横浜流星を大河主演に起用した理由 制作統括が語る「表現力や演技力だけではなく…」 | マイナビニュース (mynavi.jp)

さて、パンフレットによると、紆余曲折があって最後に藤井監督がこの映画を引き受けたとき、河村さんが決めていたのは、主演を横浜流星、エンタメ(芸能)は死なないを体現する「能」と、同調圧力や事なかれ主義を象徴する「村人が能面を付けた状態で歩く」と「ゴミ処理場の爆破」だったそうです。藤井監督の脚本が仕上がったのは昨年4月21日のクランクイン直前だったとか。(チラシを含めてVillageの写真は、1枚を除いて、全てネットからお借りしたもの)

公開日が4月の第3週の金曜日と発表されましたが、どうもお茶の稽古日と重なりそうと思っていたら、3月の稽古日に皆さんが都合の良い21日に決まってしまいました。地元の109シネマズなら朝の上映を観て午後からのお茶に行けますが、今回は大阪梅田まで行かなければならず、翌日の土曜日に出かけました。上映時間120分。

本番のポスターは主要出演者が能舞台の前に勢ぞろいしたこちらのもの。

(まだ観ていない方で観る予定のある方は読まないでください)

★5月2日、夫がテント泊で出かけたので息子と梅田で2度目を見ました。前後関係が違っていたり、感じることが違っていたりで修正を加えました。

★あらすじ(見逃し、聞き逃し、書きこぼれあり)

10年前、ゴミの最終処分場誘致反対の先頭に立っていた優の父親は、誘致が決まった村で何かの事件を起こし村での居場所を失い、自宅に火をつけて焼身自殺をする。以来、その子優と母親(西田尚美)は村八分扱いを受け、今は優はゴミ処理施設で働き、母はパチンコと酒におぼれ息子の稼いだお金をあてに、また、ごみの不法投棄の闇事業を牛耳るヤクザ(杉本哲太)から借金までしていて、優は一生かかるその返済で村から出ることも出来ない。

作業現場では村長(古田新太)の息子(一ノ瀬ワタル)らから執拗な暴力を受け、反抗できない優は荒んだ自室の布団に顔を埋めて吠えるように慟哭するしかない。うめき声が悲しく響き渡り胸が締め付けられるような前半の秀逸場面でした。

そこへ東京から幼馴染の美咲(黒木華)が村へ帰ってくる。幼い頃ともに能の舞を練習した仲良しだった美咲にも不愛想に「なんで帰ってきたの?」と問い詰める優。「東京にも何もなかったよ」と答える美咲も優に「なんで村を出ないの、色々選択肢はあったでしょうに」と問いただすが「あるワケねえだろう」と自嘲気味にこたえる優。

村長の弟で村を出て刑事になった光吉は能の舞手でもあって、ある日、薪能の舞台で邯鄲(かんたん)を舞う。客席で観る二人。「能は観た者が自由に解釈していいの」と優に話す美咲。再会後初めて美咲の家を訪ねた優に、美咲は感情が我慢できなくなった時この能面を顔に当てると鎮まるのと能面をプレゼントする。「今まで一人で闘ってきたのね」と優しく包み込むように声をかける美咲に優は初めて今まで抑えていた感情を表に出して美咲の胸に顔を埋めて泣き出す。二人は心を許し、惹かれ合うように。そして、美咲は能の演目「邯鄲」の物語を優に伝える。

施設で働く美咲の計らいでゴミ処理施設や村のガイドを引き受けて生き生きと働き出す優。テレビの取材を受け、上手にこなす優を憧れと尊敬のまなざしで見る龍太(奥平大兼)や美咲の弟の恵一(作間龍斗)もいる。しかし面白くないのは村長の息子透。「こいつ、犯罪者の息子だから」と言ってみたり、美咲に片思いしている透には二人の関係が気に食わない。村の運営というより経営に熱心な村長は、期待していた息子の透を諦めて、今では自分の後継者に優をという下心まである様子で何かにつけて優を持ち上げる。その変わり様に、優は喜びながらも有頂天にはなれず、顔には不信や怯えが窺える。

そして、ある日、一人でいる美咲に透が近づいてくる。父親が自分を見限って優を後継者にと考えていることもあって、優への憎しみを募らせている透。美咲が「それはハラスメント」と言うと「ここには、ハラスメントなんてないんだよ」と答える透。『村には村のやり方がある。外の世界のルールは通用しないんだ』という意味。

美咲にかけた電話に透がでたのであわてて駆け付けた優を殴りつける透。殴られても殴り返せない優だが憤怒の形相で顔がゆがむ。殴られた顔は血まみれで、一方の目は腫れあがり・・・すさまじい暴力に「やめて…」と叫ぶ美咲。とどめの一撃を受ければ優の命も危ないだろうという、その時……優の見開いた右目が見たのは・・・

翌朝、優は膨れ上がった顔をテレビ班のメイクで直して取材を受け仕事をこなす。二人は元通り朝を共に迎える暮らしを続ける。

ある日、ごみ処理場で恵一がホースで水をかけている時、「感染性廃棄物」という表示のプレートに気づき、調べて、刑事の光吉に知らせる。危険な廃棄物の不法投棄が明るみに出て、警察が動き出す。ゴミの山の中から、透の死体とスマホが出る。そこには美咲に言い寄る透自身とともに、不法投棄現場にいる優の姿も映っていた。

優は透との殴り合いの一部始終を見ていた美咲の弟恵一を車に乗せて、ウソの証言を強要する。優も、失いたくないもの、守りたいもののために自分をヒーローと言って慕う恵一を従わせようとする。弱い者に犠牲を強いるダークサイドの闇落ちです。怯えながらも「嘘はつけない」と拒否する恵一。

車のドアを開けて逃げようとする恵一に驚いた優は運転を誤って木に激突。怪我をした恵一が横たわる美咲の家。深刻な二人。覚悟している美咲は、優の存在が救いだったと感謝を。「救われたのは僕の方だ。幸せにしてあげられなくてごめんね」と優。

霧がかかる村の道を一人歩いて村長の家に向かう優。優は美咲をかばいながら二人と透の間に起こったことを話した。村長は「二人でやったのか。分かっていた」と。だが、「大事なのは立場。一度転んだら元に戻るのは難しい」という村長。優は父のケースを思い出して「父のときは簡単だったのか?」と問うと「覚えてない、忘れた。大切なのは村の方だったから」と嘯(うそぶ)きながら、息子の透の事件は美咲一人にかぶせて二人で村を建て直そうと持ちかける。優は「あんたゴミだな」とその卑劣さに衝動を抑えきれず首を絞めて「この村なんて…」と言いながら村長の命を奪ったのち、油を撒いてライターで火をつける。家の中では、ベッドに座ったままの母親が悟っていたかのように、相変わらず無表情のまま邯鄲の一節を謡っている。

燃え上がる村長の屋敷から急ぎ足で遠ざかる優の背中に、車から降りた刑事の光吉が声をかける。振り向いた優、両の目には涙、泣いている優、しかし、その顔は、微かに微笑んでもいるように見える。(終わり)

ここからクレジットが流れて、パラパラと席を立つ人も。最後に山あいの村の入り口が写って、恵一がキャスター付きのケースを引きながら村を出てくる姿が。(完)

☆感想のようなもの

優には救いのない終わりようでした。結局、優は父親がやったと同じことを繰り返したことに。映画の初めの茅葺屋根の家が美しい炎に包まれるシーンが今度は村長の家が燃えることに。父は自殺でしたが、優は父を死に追いやった村長、村に君臨し村人を抑圧する者に手を掛け、同じように火をつけて燃やしました。

ところで、この映画、不思議なシーンが挿入されていました。気づいたのは、最後の決断をする前、気持ちが高ぶって押さえられない時被ると静まると美咲は言いました。優が能面を取り出して見ている場面。怒りや憎しみの感情を鎮めるというより、何かを確認するかのように、あるいは問いかけるように能面をじっと見つめているシーンですが、やがて顔に当てます。微かに呼吸音がして徐々にその音が大きくなります。まるでスターウォーズのダースベーダ―の呼吸音みたいな音です。それまでも優はゴミの山の中の黒い穴の傍に跪(ひざまず)いて耳を穴によせて聞き耳を立てていました。穴の中から以前より大きくなって呼吸音のような音が聞こえてきます。(↓パンフレットの写真)

そういえば、この黒い穴は、早い段階から出ていました。優は何だろうと思ってのぞき込んだり、耳を近づけたりしていました。そして、映画が進むにつれて、その雑音のような音がハッキリと聞こえるようになってきたのです。これは何だろう。後輩の龍太は何も聞こえないと言っていました。

地獄の底から聞こえる悪魔の囁きか、それとも天使の誘惑か、と思ったのですが、あの優の最後の顔、全ての抑圧から解き放たれた解放感や、これで終わったというような満足感というか、今まで見たことのない安らいだ表情でした。この黒い穴と能面と最後の優の顔、これら3つのシーン、何か関係があるのか・・・

私が思ったのは、黒い穴は『本当の自分自身』なんじゃないかと。自分は何がしたいのだ、自分は何を是とし何を非とするのか。人任せではない自分の本音、心の中の声に耳を澄ますことを示唆しているのでは。初めて自分の意志で自分のために行動した結果が最悪だったとしても、それは自分を取り戻せた喜びではないのか。

リアルな村の過酷なヘエラルキーの描写の中に、こんなファンタジックなシーンがはめ込まれているとは…と、ちょっと驚きました。

観終わって、私には、村の同調圧力や事なかれ主義を描いた社会派の映画という捉え方には当てはまらない、例えていえばシェークスピアの四大悲劇の一つ、のような感じをうけました。能の邯鄲(かんたん)は、勧められた枕で寝て見た50年の栄華の夢は、わずか栗ご飯が炊ける時間の一炊の夢だったというお話ですが、その話を知っている優は、自分が祀り上げられていることも、またその「夢」がいつかは邯鄲のように簡単に破れるのではないか、と絶えず怯えていました。最後に初めて自分の内心の声に従って行動した優、内から沸き起こる怒りに任せてとった行動が最悪の結果を招いてしまった。

村長は村の経営上、不法投棄を黙認していました。露見した時、その責任と後始末を「お前が何とかしろ」と全部優に任せます。森友問題の赤木さんと同じ!!! です。

ここで村のルールが外の世界とは違うということを知っているのは、能の舞手であり、かつ村の外に出て刑事である光吉と、東京から村に戻った美咲、そして、美咲の弟の恵一です。恵一には少し障害(吃音とひょっとして発達障害?)があるようで、それゆえ村のルールに縛られない純粋さと強さがある。

透が美咲に「村にはハラスメントはないから」と言ったのは、日本の今と同じです。国民が常識と思っていることが永田町では通じない。自民党政権の中では「嘘」という言葉は無いから。「平和憲法」は無いから。入管に「人権」はないから・・・で事は進んでいます。

映画館に置いてあったのでもらってきたTOHOシネマズの冊子のトップ頁に主演の横浜さんと藤井監督の二人の写真と言葉が紹介されていました。

横浜流星さん「内面では爆発しそうなのに吐き出せない、逃げたくても逃げられない、何か一つ言葉を掛けられた瞬間に壊れそうな感覚で役を生きていました」

この壊れそうな感覚で生きていた優の感情を決壊させたのが美咲の「ずっと一人で闘ってたんでしょ、あんなところで」という言葉でした。そして一人で闘っていたのは美咲も同じ。優の「幸せにしてあげられなくてゴメンなさい」の言葉で、今度は美咲が優の腕に顔を埋めて泣くことに。

藤井道人さん「『流浪の月』の流星がすばらしくて、悔しくて(笑)俺が撮ったらこうなる! と拘ってしまって、撮影時にはテイクを重ねて苦労を掛けました」

いかようにも読み取れる映画。見るたびに感じることも考えることも違ってくるのではないかと思います。この映画自体が能面のよう…というか能仕立てで、観る人次第で異なる映画になるようです。私も一度目と二度目では違っていました。何度でも観たい映画です。

主演の横浜流星さんの激しくまた繊細に変化する優の演技は最後まで嘘のない素晴らしい表現でした。さすがです。

黒木華さんも、優を立ち直らせることが自分のこの村での存在理由でもあり、東京での挫折を克服することでもあるという女性をいつもながらとても自然に演じていました。

そして、優の前に立ちはだかる透を演じた一ノ瀬ワタルさん。監督の助言もあって透の恋愛映画のつもりで演じたとのことですが、横恋慕の含羞と、それでも優を憎み苛め抜くことでしか埋められない透の孤独とゆがんだ気持ちがお見事でした。

中村獅童さんは能の舞姿がさすがに美しいし、村と外の梯役の良い人役で役得でした。村長を演じた古田新太さんも文字通りの悪役ながらマザコンというか、物言わぬ家長の母親の顔色を窺い乍らも、村の為と言いつつ悪事にも関り、自分の後継者には向かないとなると息子の透にも冷たく当たり優を重用、そのためには村人の偏見に対しても説得してかかるという複雑な役をさすがに巧く演じています。

優の母の西田尚美さんも捨て鉢になっていながら、息子の出世と共に母らしくなっていく哀れな普通の母を演じていました。そして、ごみ処理場で暴力行為のターゲットになっていた優の次の標的になった龍太を演じた奥平大兼さん。優の「陰」に対して過酷な境遇を笑って済ます「陽」の役柄が上手でしたし、美咲の弟の恵一を演じた作間龍斗さんは、映画の最後、未来を託されて最終場面に登場しました。

特殊メイクで村長一族の長である母親を一言のセリフもなく演じた木野花さん。能面のようなその表情には何もかもお見通しという怖さもありました。

2時間とは思えない深くて重い味わいの映画でした。監督もプロデューサーも30代半ばという若い世代が作った映画ですが、行実良プロデューサーの言葉を最後に:

「この映画を暗くて重いと思った方は、今、ご自分の人生がキラキラしているのだと思います。どうぞ大切になさってください」

★追記

昨日の朝日夕刊の映画欄、「プレミアシート」は「ヴィレッジ」でした。

写真はのシーンは、警戒する美咲(黒木華)に言い寄る透(一ノ瀬ワタル)です。

記事の筆者は、映画評論家の秋山登という方で、「ここには極めて強い現実感があり、なおかつ普遍性がある。すなわちこれは、日本という国自体の寓話(ぐうわ)にほかなるまい」と書いて、最後を「改めて思う。河村は、思想や政治を娯楽化して見せるという映画の目覚ましい機能に賭けた日本では稀有なプロデューサーだった」と締めくくっておられます。映画を観た私も、河村光庸氏追悼の言葉としてとてもピッタリだと思いました。

この記事の下にある「全国映画動員ランキング」では、1位から順に、名探偵コナン、東京リベンジャーズ2,THE FIRST SLAM DUNK、映画ドラえもん、そして5位に「ヴィレッジ」。6位からは、シン・仮面ライダー、わたしの幸せな結婚、となっています。社会派エンタメ映画としては大健闘だと思います。

最後にツィッターの写真を。「ヴィレッジ」の最終場面を撮影してクランクアップした日、撮影現場を訪ねた河村さんを真ん中に監督と主演の三人。このあと10日ほどして亡くなられたそうです。

映画「ヴィレッジ」と「河村光庸から受け継いだもの(インタビュー)前後編」・「ある映画プロデューサーの死(望月衣塑子インタビュー)」 - 四丁目でCan蛙~日々是好日~ (hatenablog.com)

★付記

2日、夫が比良山へでかけた日、帰省中の息子と観ました。初回はどうしても激しく変化する優の気持ちを優先して見てしまいますが、今回は美咲の気持ちが解りました。映画に登場する能の演目は「邯鄲」に加えて村の薪能では「羽衣」が登場します。「羽衣」は、昔話の羽衣伝説で、置き忘れた羽衣を拾った漁師に天女がお礼の舞を舞って天に昇って帰るというお話で、テーマは「栄華は一炊の夢」のように、良きことは長くは続かないという儚さです。「邯鄲」は優を表し、「羽衣」は美咲だということに。

今回、優と美咲の二人は相似形に描かれていることが分かりました。二人は村で生きて行こうとするとお互いが無くてはならない存在でした。優は勿論、荒んだ暮らしから生きていく術と生きがいと生きる喜びを美咲から与えられました。同じように、都会に出て夢破れ精神を病んで村に帰ってきた美咲にとって優の存在は救いでした。優にチャンスを与え、立ち直らせていくことが美咲の生甲斐で喜びでした。

だから、美咲は優の命が透の暴力で奪われそうになった時、優を助けるために最悪の事態=透を殺めてしまいました。同じく優も村長が美咲一人に罪をかぶせるやり方が許せなくて村長を殺めてしまいました。感情を溜め込んで押さえ続けると何時か爆発する時を迎える。こうなってしまわないように・・・これは権力者が考えることなのか、虐げらる者が考えるべきことなのか・・・