◎いよいよ朝ドラ「虎に翼」では寅子(モデルは三淵嘉子)が裁判官として原爆裁判の法廷に出ます。前半で、米軍機による名古屋空襲や横浜空襲が、市街地を爆撃目的としたものであったことを見てくると、通常爆弾よりはるかに威力の強い原子爆弾を広島の市街めがけて落とすことが国際法に反しているというのは自明のことですが、、、
『強国、大国優先の社会であるということで、国際法自体が、ルールそれ自体はきちんとしているものであっても、現場に適用する段になると、どうしても強い国の側が責任を問われない』現状をどうするのか・・・
BC級戦犯の調査委員会を率いている間部弁護士は、ウクライナのジャーナリストとの対面ディスカッションで、過去の国際法違反の戦争犯罪を調査していながら現在進行中のそれに生かせられていないことに涙しています。それでは、後半です。
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台湾空襲を問う(1994年10月~1945年8月)
50年間に渡り日本の統治下にあった台湾。太平洋戦争中、台湾も度々アメリカによる空襲を受けていた。空襲の際に墜落した64人の搭乗員が台湾軍に捕らえられた。1945年5月、この搭乗員たちは軍律会議に掛けられ14人が死刑となった。検察官などを務めた法務中尉の小池金市。終戦後、BC級戦犯とされた。
小池の再審査記録も残されている。わずか1日の公判で、こうした事件では極めて軽い重労働4年の判決が下された。なぜ、異例とも言える処分がなされたのだろうか。
終戦後の1946年1月。小池は不法な殺害に関与したとして逮捕された。
巣鴨プリズンに拘留されて11ヶ月後、ようやく小池の取り調べが行われた。小池の供述の記録が残されている。
小池金市供述書(1947年6月19日)
取調官:搭乗員たちを取り調べたときの事を話してください。
小池金市(佐野史郎):私が調べた者は一人残らず無差別爆撃や機銃掃射を行った米軍機の搭乗員であることを認めました。同情と憐憫の情は有りましたが、私は一法律家として徹底的な調査の結果から、彼らが軍律に違反する無差別爆撃の罪を犯していると確信しました。日本の軍律に従えば極刑しかないと思いました。この時の私の考えは死刑の宣告は正当であるというものでした。
N:小池のケースを調査していた石黒弁護士と本間弁護士は軍律会議の記録を入手していた。
「凄いね」「残っているだけで凄いよ」
「きちっと書いてるからね」「尋問が1回だけでなく、3回やってるんですね」
N:小池が検察官として尋問した一人、当時24歳。ラルフ・ロバートソン・ハートレイ。爆撃機を護衛していた米軍機のパイロットだった。
小池(佐野史郎):第一回出撃の模様を述べよ。
ラルフ:2,3回急降下し、無差別に銃撃を加え帰投した。
田畑の農夫や民家等を爆撃することも有り得るがやむを得ない。
N:小池は取り調べに時間をかけ、無差別爆撃を自供した搭乗員だけを起訴し、残り40人は捕虜として日本の収容所に収監した。軍律会議では通訳を付け、6回にわたり審議を重ねた。
本間弁護士:小池さんは何にも落ち度はないと思ってたと思う。軍律規定に従ってやったという風な、文字通りツッコミどころがないような気がします。
N:しかし、搭乗員らの死刑の執行に際し、小池を動揺させる事態が起きた。
小池(佐野):軍律会議の後、長官が彼らは絞首刑になると話していたと聞かされました。これには非常に驚きました。これまで職務として正当に遂行してきた事が、死刑執行の時に不当になってはならないと思い、現場に向かいました。
搭乗員たちを軍服に着替えさせ、銃殺刑に処するよう要請しました。少佐に斬首をやめるよう進言してほしいと頼みました。
N:小池の働きかけにより、1945年6月19日、空襲軍律により、米軍搭乗員14人の銃殺による処刑が執行された。軍律に忠実に従い行動していた小池。 だが、軍律会議の問題点を問われた時、こう語っていた。
小池(佐野):私が行った取り調べや軍律会議は、全て特殊な状況下における軍律に従ったものです。信念を持って遂行した職務でした。しかし日本の軍律会議の不完全な点が三つあると思います。
一つめは、同一人物が調査官と裁判官を兼任できること。
二つめは、被告人に弁護士を付けることを禁じていること。
三つめは、裁判と取り調べに関する文書の作成が任意とされている、ことです。
法務官としての自分の意見と関係なく軍律を絶対守らなければならなかったことは言うまでもありません。
N:戦犯裁判での小池の主な罪状は「捕虜の不法な殺害に関与して」というものであった。
N:弁護に当たったのは親子二代で戦犯を担当していた飛鳥田一雄弁護士とソル・プリンスフィールド弁護士だった。
ソル弁護士:弁護側は罪状項目から「不法に」という文言を削除することを求めます。
検事:異議ありません。
弁護士:被告人は証言台に立たず黙秘することを望んでいます。
N:不法とされることに、小池は強く反発していた。判決はその日のうちに下された。
「当局の指定する場所において4年間の重労働に服すること」
逮捕から、3年3ヵ月後、釈放。戦後、小池は弁護士として活躍した。
異例となったこの裁判の舞台裏で一体何があったのか。
小池は生前、神奈川県弁護士教会の聞き取り調査に応じている。
2000年9月、小池金市(90歳)
小池金市聴取録より
取り調べで私は台湾の病院や学校をアメリカが無差別に爆撃して病人や子供を殺していることを横浜裁判で徹底的に世界にアピールしてやると、こういう風に言ったのです。
N:飛鳥田弁護士は民間人への無差別な攻撃であることを立証しようと、台湾から帰国した60人以上の供述を集めていた。
「大学病院は5,6発の爆弾を受け、使い物にならないほど破壊されました」
「私たちは皆、空襲は街そのものに向けられたと思いました」
「無差別爆撃でした」
N:後に横浜市長になった飛鳥田一雄弁護士は、次のように回想している。
「いかにアメリカがひどいことをしたか、無差別爆撃の証言を猛烈に集め始めたんだ。
これが立証されたらアメリカも困る訳よ。こっちの作戦が分ると検事が折れて来てね」
N:飛鳥田は、アメリカ側から司法取引を持ち掛けられたという。
小池(佐野):司法取引では「不法な殺害」という起訴状の記載を消してくれたら有罪を認めると主張しました。飛鳥田君からは「3年を超えない判決にするというから金ちゃん辛抱しろよ」と説得されました。
確かに罪状から不法の文言が削除され、量刑についても3年の刑が妥当とされていた。
小池ケース・ディスカッション BC級戦犯調査委員会
大川隆司弁護士:爆弾を落とした部分だけ起訴したんだという事実が前面に出てきちゃった。アメリカとしてはヤバイんじゃないのかな。アメリカとしては無差別爆撃をしようとしていたという意図が認定されてしまうことは、やはりアメリカ側からしても好ましくないところがあって、司法取引という話があったんじゃないかという推察です。
「法務官としての小池さんの対応について、何か感想でも…」
「こういう軍隊での組織の中で自分の法律家としての正義感をどれだけ貫けるか…もちろん、貫かなきゃいけないという建前は分かるんですよ、ただ、小池先生は法務官としても上司の理不尽な命令には従っていなかったみたいなんですね。そういうような対応を、その当時、自分達だったら出来るのか考えると、非常に難しいんじゃないかな、と個人的には思います。」
N:聴き取りを行った弁護士たちに、小池は、戦争の時代に法を担う者の危うさを語っていた。
小池金市(佐野):当時の風潮として人権などというものはあまり考えられていませんでした。私は東京弁護士会での見習い時代に立派な弁護士の先生が厳しく正義・人権について骨の髄まで染みわたるような教育をしてくれたので身についていました。したがって上官の理不尽な命令に対しては婉曲的に従わないようにしていました。
正義や人権に対する基本的なことが身についていないと、軍隊の命令は大変強いので、上官の命令に体を張って阻止することは出来ないのです。
N:上官の命令に従うことを常に個人に強いてきた戦争。爆撃を行ったアメリカの搭乗員たちも、又、葛藤を抱えていた。
台湾で処刑された14人の搭乗員の一人、ハリー・ジョーダン・スパイヴィ(当時23歳)。
戦場からハリーの便りが届かなくなって家族は案じていたという。
ハリーの甥、エド・スパイヴィさんは、叔父の心の内を聞いていた。
エドさん「ハリーはよく『家に早く帰りたい』と話していたそうです。
『人を殺めたりしたくない』と『早く家に帰って親父とタイヤ屋を始めたい』と言っていた。戦場ではウンザリしていたろう。彼の手紙は家族のことばかり。」
「愛しているよ」「もう帰るよ」と、ハリーの戦地から送った手紙が残されていた。
「お母さん、僕はミッションには2回しか行ってないから心配しないで」
ジョイス「ごく普通の家庭で平凡に育った男性が人を殺したいはずがありません。
国に命令されたら殺人者になるのを避けられない状況に陥ると思うのです。」
「もし彼が生きていたら罪深さや後悔の念に襲われたに違いないと思います。」
「ハリーを裁いた法務官も裁かれたことについては?」エド「手紙でハリーの考えていたことを読み取ると公正や正義について考えるのが難しくなる」
ジョイス「連鎖(サイクル)よね」エド「連鎖. だね。だから、戦争は…」
N:「無差別爆撃は国際法に違反するのではないか」BC級裁判での弁護士たちの訴えは充分に審議されることはなかった。
名古屋空襲は無差別爆撃であると立証しようとした岡本尚一弁護士。その後、岡本弁護士は新たなる問いかけを行った。原爆裁判である。
原爆裁判。1955年、広島、長崎の被爆者5人を原告とした日本政府へ損害賠償を請求する訴訟である。岡本はこう訴えた。
「原爆裁判訴状」
「原子爆弾の投下は無差別に人類を殺傷するもの 国際法に反することは明白」
8年間に及んだ審議を結審まで担当した裁判官は三淵嘉子。
1963年12月7日、東京地方裁判所は被爆者への賠償は認めなかったが、原爆投下は、初めて国際法違反だとする判決を下した。
無防守都市に対する無差別爆撃として
当時の国際法から見て違法な戦闘行為であると
解するのが相当である
原爆裁判の記憶を受け継いだ大久保賢一弁護士(日本反核法律家協会 会長)にこの裁判に込めた弁護士たちの思いを伝え聞いてきた。
「岡本さんが考えた原爆裁判というのは誰も見向きもしなかった。けれども、めげなかった」
「無差別攻撃や残虐な兵器の使用の禁止など戦争法があるにもかかわらず、自分たちは原爆投下にして何も触れないで、敗者の方だけを裁くのか、その事に対する怒り」
「核兵器の使用が国際法に違反すると断言した原爆裁判、国際法が発展していくうえでの役割は、はっきり確認できるんじゃないか. とそんな風に思いますね」
N : 原爆裁判の判決は海外にも影響を与えた。
1996年、国際司法裁判所が勧告
核兵器の使用や威嚇は武力紛争において
使用される国際法の規則に一般的に反する
無差別爆撃についても国際法はより厳しく禁じている。
1977年ジュネーブ諸条約第一追加議定書
軍事目標をねらって市民を過度に巻き込む爆撃は禁止する。
と初めて勧告している。しかし、アメリカとイスラエルなどは批准していない。
「強国、大国優先の社会であるということで、国際法自体が、ルールそれ自体はきちんとしているものであっても、現場に適用する段になると、どうしても強い国の側が責任を問われない。
だから、声をあげないといけない。声を挙げてルールを作り運用していく、そしてそのルールは誰にでも向けられるものにしていく、そういうことが、それが法の支配を真の意味で実現することだと思う。そういう意味においては、BC級裁判は問題性を浮き彫りにしたし、今も道半ばのところにある。」
N:2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻。
ウクライナの警察はロシア側の戦争犯罪は12万件以上にのぼるとしている。
2022年5月、ウクライナ国内で初めての戦犯裁判が開廷した。被告は21歳のロシアの青年。市民を発砲により死亡させたとして罪に問われていた。
犠牲者の妻「教えてください。貴方は犯した罪を悔いていますか?」
ロシア青年「罪を認めます」「私を許せないことは理解しています。お許しください」
ロシア兵は終身刑を求刑された。しかし、弁護士は上官の命令によってウクライナに送りこまれたとして減刑を求め、15年の禁固刑となった。
N:この日、間部俊明弁護士率いる調査チームはウクライナの戦犯裁判を取材しているジャーナリストとミーティングを行った。
イリーナさんはロシア兵の”戦争犯罪”を問う裁判で取材を続けてきた。
間部弁護士:私たちは過去のことを調べているわけですけれど、でも、他方で今起きていることに過去の戦争犯罪の教訓が生かされていないのではないか、何ができるのだろうか、考えたいと思っています。
イリーナさん:ロシア兵が逮捕されるケースは多くありません。彼らはまだ最前線にいると思われます。彼らを私たちの裁判に連れて来て裁くことは出来ません。私たちの弁護士や裁判官は経験がまだ浅いのです。ウクライナにとってあなた達の文献や議論、経験がとても役立つと思います。
間部:現実に行われている戦争の惨禍というのは、繰り返されているわけで、これでいいのかという気がしている。
本当に悔しい思いで死んでいった人もいっぱいいるわけで、、、その事を伝えきれていないわけです、、、伝えなきゃいけないことを国がやらないわけで・・・
先輩弁護士がやった裁判をきちんと整理して伝えながら、今の世の中に対する国際シンポジウムを日本でやれないかなと思いますね・・・
N:79年前、焼け野原の横浜で行われたBC級戦犯裁判。
法は、人々の生命を奪う戦争とどう向き合うべきなのか、
無差別の殺戮の抑止となり得るのか―――その問いかけは今も続いている。
終わり