◎パラリンピックも終わって9月も中旬を迎えています。昨日は9月9日、個人的には亡き父の命日ですが、9が重なる「重陽の節句」で「菊の節句」。と言っても旧暦ですので、それを考えれば、まだ私たち世代は何とか季節感の想像はつきますが、この亜熱帯の今の大阪に居ては、「はぁ~?!」としか・・・それほど、暑い!! 夕食時には、日中の温度が2度も低い沖縄の次男に電話して、涼しくていいわね~でした。
🔲今朝の内田樹氏リポストの紹介は「東京新聞労働組合」の記事で『桐生悠々』を取り上げていましたので全文をコピーしました:
教育に充てるべき予算が無謀な戦争のために費やされ、どれだけ有能な若者らが犠牲を強いられたか。同じ過ちを二度と繰り返してはならない。
桐生悠々を偲んで 戦争に予算組む国の末路
2024年9月10日 05時05分 (9月10日 05時05分更新)
私たち新聞記者の大先輩で、反軍、抵抗のジャーナリスト桐生悠々=写真=は1941(昭和16)年、日米開戦3カ月前に亡くなる直前まで言論活動を続け、戦争に突き進む時の権力や軍部に言論で果敢に立ち向かいました。その言説は現代にも通じる明察です。
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おなじみの本紙読者には繰り返しになりますが、桐生悠々について紹介します。
1873(明治6)年、金沢市で生まれた悠々は明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けた言論人です。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知」新聞や長野県の「信濃毎日新聞」などでは編集、論説の総責任者である主筆を務めました。
新愛知時代の1918(大正7)年に起きた米騒動では、米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じた寺内正毅内閣を厳しく批判。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立って寺内内閣を総辞職に追い込みました。
信毎時代の33(昭和8)年の論説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」では敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを指摘します。日本全国が焦土と化した歴史を振り返れば正鵠(せいこく)を射る内容でした。
戦時は軍事費が7割に
「他山の石」40(同15)年4月5日号の巻頭言にこうあります。
「戦争の為に、百億の予算を組む国家と、教育の為に、百億の予算を組む国家と、いずれが将来性あるかは問わずして明である」
「だが、問わずして明なるこの問題が、いずれの国家でも、特に我国(わがくに)において、解決されていないのは、慨嘆に堪えない」
大正デモクラシーはすでに後景へと退き、31(同6)年の満州事変から、海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した32(同7)年の五・一五事件、陸軍青年将校らの反乱部隊が首相官邸などを襲撃した36(同11)年の二・二六事件を経て軍部が台頭し、政治への関与を強めていました。
当然、予算編成には軍部の意向が反映され、軍事予算は膨張し続けます。当時の大蔵省資料によると40年の国家予算は110億円。うち軍事費は79億円ですから、その割合は72%にも達します。
悠々が指摘した「戦争の為に、百億の予算を組む国家」とはまさに当時の日本のことなのです。
軍事費の割合は36(同11)年までは戦時を除き50%未満でしたが、37年以降は7割を超え、敗戦前年の44(同19)年は実に85%に達します。教育予算などないも同然。学校とは名ばかりで軍事教練や工場での勤労奉仕に明け暮れ、大学生らは学徒動員で戦地に赴きます。
国家予算の7割以上も戦争に費やし続けた結果が敗戦であり、後に残されたのは日本人だけで310万人を超える犠牲と、焦土と化した国土でした。
教育に充てるべき予算が無謀な戦争のために費やされ、どれだけ有能な若者らが犠牲を強いられたか。同じ過ちを二度と繰り返してはならない。それが先人たちの犠牲に報いる唯一の道なのです。
言論で立ち向かう覚悟
今の政権は、悠々が鳴らした警鐘に逆行するように「戦争の為の予算」を増やし続けています。
しかし、2012年発足の第2次安倍晋三政権以降、防衛費は周辺情勢の緊迫化を名目に2%程度を目標に膨張が続きます。12年度の4兆7千億円から25年度には概算要求で8兆5千億円を超えました。防衛費倍増で不足する財源は所得、法人、たばこ3税を増税する「軍拡増税」で賄います。
戦争のために巨額の予算を組んだ国家の末路は明らかです。その反省もなく、なぜ同じ道をたどろうとするのか理解に苦しみます。政権は今も通じる悠々の警鐘に誠実に耳を傾けるべきでしょう。
きょう9月10日は悠々の命日。悠々を偲(しの)び、権力の暴走には言論で立ち向かう覚悟を新たにする日にしたい。それは、かつて軍部に同調して国民を戦争へと導いた、メディアの反省でもあるのです。
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