◎一度、お手付きで、今年最後のご挨拶をしてしまったのですが、これは、ぜひとも年内のブログに書き留めておきたくて:
🔲イスラエルがシリアに核使用!?
🔲どうして無駄を承知でやり続けるのか・・・
🔲いざという時、『反射』できるか? 朝日新聞、昨日の記事です:
🔲全文コピーです:
(多事奏論)心の年賀状 「いざ」に備える反射、日々鍛えて 高橋純子
「できるかな?」
「できますね」
過日、東京・丸の内。眼下に皇居の暗闇をとらえながら、年下の女性と日本酒を酌みかわしつつ話題にのぼったのは、韓国のトチ狂った「非常戒厳」、それに対し、「銃を下ろしなさいよ! 恥ずかしくないの?」と戒厳軍の銃をつかんで抗した野党の女性報道官のこと。自分も「いざ」という時、あんなふうに行動できるだろうか? 私が「拷問は嫌だけど、その場で撃たれる分には大丈夫だと思う」と言うと、彼女は「わかる!」。じゃあどんな拷問が一番嫌か?に話はうつり、彼女は爪をはがされること、私は水責めという結論を出したころには揚げ出し豆腐が冷めていた。
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自分だったらどうしたか。なにができたか。そう自問自答する日々が続いている。「非常戒厳」にすばやく、敢然と立ち向かう韓国の市民、国会議員らの姿を目の当たりにしてからずっと。
1980年、民主化を求める学生や市民を戒厳軍が鎮圧し、多数の犠牲者を出した光州事件の記憶。民主主義を自分たちで闘い取った経験。「非常戒厳」をわずか数時間で撤回に追い込んだパワーの淵源(えんげん)についてはさまざま解説されていて、それにいちいちうなずきつつも私の脳内でぱちんとはじけたのは、哲学者・鶴見俊輔の「反射」という言葉だった。
先の大戦に際し、日本は間違っている、負けるに決まっていると思っていた鶴見。しかし「戦争反対」の行動には指一本あげることができなかったと、戦後、自身への絶望感を拭うことができずに悩み続けた末、指一本あがらなかったのは勇気がなかったからでも、怠け癖のせいでもなく、「肉体の反射」がなかったからだと考えるに至るのだった。
反射とは、外からの刺激に対して意識とは無関係に起こす反応のこと。火に触れて「あちっ!」と手を引っ込めるように、権力が暴走を始めた時、国家が個人の自由を潰しにきたと感覚した時、頭で考えるより先にからだが動く。そんな「肉体の反射」が果たして今、私の身の内に宿っているか否か。問題はそこだ。
そして答えは残念ながら否。戒厳令下、外出していいの?と足がすくんで右往左往、みんなはどうしてるんだろう?とSNSを検索しているうちにはい、手遅れ。そんな結果が目に浮かぶ。泣く。
「右向け右」と号令がかかれば即座に右を向くようしつけられ、外に出れば地図アプリが示す通りに歩いて、信号が赤なら車がまったく通っていなくても止まる。そんなふうに毎日をただ生きていれば、反射がサビつくのは必然である。
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鶴見は、面白いことを言っている。
「この憲法は、憲法に付随するあらゆる法律を守るという姿勢によってでは守れません」(「戦争と日本人」)
権力が憲法のしばりをふりほどこうとした時は、法律の細目に触れる行動を通してでも、憲法を守れとはっきり要求する必要がある。だからその時のために、日常的に反射を鍛える。デモや座り込みが難しければ、号令や指示に従順な自分を「嗤(わら)う」視点を確保する。それだけでも十分、サビ予防になるはずだ。
日本国憲法12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
来年は戦後80年。心の年賀状に「不断の努力」と書き、読者のみなさまへ送る。極太字で。よいお年を。
(編集委員)
◎それでは、私からも、あらためて、良いお年をお迎えください。