◎今日は自力整体の日。午前中はS先生にシッカリほぐしてもらって、帰り道、午後からお茶に誘って、Sさんと二人で、1時過ぎから2時間ほど、羊羹や柿の実のヨーグルト添えにお茶やコーヒーを淹れて、お茶飲み話。危険な高市政権+維新の動きに心配ばかり募り、長生きしてても世の中はよくなりそうにないね~とボヤキ漫才になってしまいます:
🔲高市内閣総理大臣、昨夜のスピーチで、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を再び取り戻す」っていつの時代の日本のことかとても気になりました。ところでニューヨークタイムズ紙の見方はかなり厳しいです:
◎あまり明るい未来を期待できなくて一寸ブルーですが、気を取り直して江戸時代へワープです。

★大河ドラマ「べらぼう」が、40回を迎えました。48回が最終回なので残り8回です。蔦屋重三郎の没年は1797年。生まれたのが1750年なので47歳で亡くなります。前々回では、田沼意次の後の松平定信の治世のもと、「幕府による出版物の取り締まりが厳しくなる中、北尾政演(まさのぶ)は幕府の意向に沿う内容の黄表紙「心学早染草」を蔦屋以外の版元から出版します。「善玉・悪玉」という言葉のルーツとなったこの本は大ヒット。ただし、ただ楽しければいいという政演の姿勢は蔦重を怒らせてしまう。
その後、奉行所からのお達しで、仲間内から行事を選び、自主検閲が行われることに。ここで政演の蔦屋から出す新作三冊に行事が難色を示したが、蔦重は『教訓読本』という袋に入れて売り出すと押し切った。
年開けて寛政三(1791)年三月、奉行所の与力、同心が蔦屋に現れ、山東京伝昨の三冊を絶版、没収した。その結果、行事二人も含めて、四人は奉行所で詮議をうけた。政演は蔦重に書けと強要されたと証言。行事たちは蔦重が好色本ではないと強弁したと答える。あくまで三冊は教則本だと言い張る蔦重の前に奉行の初鹿野と松平定信が現れ、お白州で蔦重との直接対決となる。
蔦重は「どの本にも『遊びは身を亡ぼす』と但し書きを入れてあり、これは教則読本だ」と譲らない。しまいには「白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき」を持ち出し、定信が三冊の本を認めれば、硬いばかりではなくて物分かりが良いと世間の評判が上がるとまくしたてる。怒り心頭の定信は、蔦重に激しい棒たたきに処するが、蔦重は主張を曲げない。
ここから、御公儀に正当な学問と認められた朱子学の出番です。刑罰の厳しさで民を従わせるのは誤りとされているので、妻のていは、この矛盾を衝けば蔦重の命乞いが出来るのではと考えて、「寛政異学の禁」を主導した儒学者・柴山栗山を訪ね、朱子学の教えをそらんじたうえで「女郎は親兄弟を助けるために売られてくる孝の者。不遇な孝行者を助けるのは正しいこと。夫は、女郎の身を案じ、洒落本にて遊里での礼儀や客との処し方を伝えたかったのだと思います」と。不遇な孝行ものを助けるのは正しいことだというていの言い分に、栗山は聞き入っていた。
その後、蔦重は奉行所で初鹿野から身上半減を言い渡された。店と蔦重個人の財産の半分を召し上げるという珍しい処罰だ。政演は、手鎖(手じょう)をした状態での自宅謹慎五十日を命じられた。(大部分をNHKドラマ制作班監修のNHK大河ドラマ・ガイド 完結編「べらぼう 蔦重栄華乃夢噺」より引用)
↓ 着物に大きな蔦屋の紋が入っているこの男性が蔦屋重三郎と言われています。

★この時、版元の蔦屋重三郎が受けた罰は「身上(しんしょう)半減」(財産半分没収)でした。それでもひるまず、この後、喜多川歌麿に美人大首絵を描かせ、最後に写楽を登場させます。昨年の紫式部に続いて合戦のない文科系大河の男性版ですが、波乱万丈、上方文化に対抗する江戸文化が仕上がる過程を描いていて充分楽しめています。
昨年、ドラマの予習を兼ねて読んだ蔦屋重三郎関連本の中に、田中優子著「蔦屋重三郎 江戸を編集した男」があります。何年か前TBS系の朝の番組「サンデーモーニング」のコメンテーターとして着物姿でよく登場されていて、法政大学の学長もされていました。その田中優子さんは日本近世文学や江戸文化が専門です。タイトルにも使われている『編集』という言葉は、この本が昨年亡くなられた松岡正剛さんに捧げられていることでもわかるように、松岡正剛さんの言葉です。
この本の中から紹介です。(・・・は省略)
1765年、暦についていた絵が独立、絵には「あつまにしき画(え)」=上方ではない「江戸で生まれた多色摺り版画」というジャンル名と版元が記載されていました。この時、蔦重15歳、元服の年に江戸文化の大きな変化、浮世絵の誕生を目の当たりに・・・したことに。
江戸文化って何? と問う前に、そもそも「文化」とは? 漢字の「文」は、身体に記す交差記号、つまり✖印である。英語のcultureは言わずと知れた「耕すこと」だ。
・・・この両方に共通するのは、自然界の一部である人間が、自然界から何かを紡ぎ出してこの世にもたらすことである。・・・・・
文化とはその別世(べつよ)のことであった。蔦屋重三郎は、その別世をこの現実に出現させるための編集に、尽力したのである。
「編集とは?」を説明するのは難しいですが、19日の第40回のドラマで、蔦重が歌麿と二人で話しながら、かなり具体的に絵の内容をリードしていく様子が、まさに「編集」という現場だ!と感じました。
喜多川歌麿(染谷将太)に「ディレクションする」蔦屋重三郎(横浜流星)

その結果、生み出された有名な絵がこの「ぽっぺんを吹く女」の絵です。薄いガラスの小道具(息の出し入れでガラスが引っ込み、元に戻るときに「ぽっぺん」と音が出る)を手にする女性を描いています。

下の写真はネットで見つけた写真ですが、狂歌蓮のメンバー紹介図です。
1784年(天明四)に岩戸屋源八が出した恋川春町の「吉原大通会」
左下で硯と筆を差し出しているのが蔦屋重三郎です。狂名が蔦唐丸。

当時は侍が文人も兼ねていたので、名前が二つありました。()内は俳優さん。
右上、手柄岡持(てがらのおかもち)=朋誠堂喜三二(尾身としのり)
その左、四方赤良(よものあから)=太田南畝(桐谷健太)
真ん中左、朱楽管江(あけらかんこう)<あっけらかん?>=(浜中文二)
【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ… | 日本画・浮世絵 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3