優しかった従兄

昨日3月5日は晴れの良いお天気。中山寺の梅林へ午後急に思い立って出かけました。
紅梅、白梅が見ごろ、平日でもかなりの人出。梅林から甲山が見えました。

啓蟄の一昨日は10歳年上の従兄のお葬式に、叔母にあたる母と夫の運転、日帰りで出かけました。朝7時に家を出て、ちょうど夜の7時少し前に帰宅。名神高速米原まで、そこから北陸自動車道に入って琵琶湖の北東沿いに滋賀、福井を経て石川県加賀市まで3時間程のドライブです。

私が小学2年の頃から夏休みになると母は私たち姉妹(妹たち)を汽車に乗せ、隣の座席の大人の人に「大聖寺までですので」と頼んで父の実家のある大聖寺まで7時間ほどの汽車の旅をさせました。大聖寺から支線に乗っていくつかの駅を経て母の実家になります。どちらにも男ばかりの従兄弟たちが3,4人、近所にも叔母さんが2,3人もいました。私たちは父の実家と母の実家を行ったり来たりして過ごしました。そんな時、自転車で迎えに来たり、送って行ったりしてくれたのが亡くなった従兄でした。走りにくい砂利道を延々私を後ろに乗せて黙って連れて行ってくれる優しい従兄でした。

お葬式は自宅ではなくてすぐ近くの公民館でありました。田舎でも葬儀社まかせのお葬式になってしまっていました。当時遊んだ従兄弟たちに再会しました。代替わりした母の実家も、また一世代若い世代になってしまいました。母は5人姉妹の真ん中ですが、元気でいるのは母だけで、甥っ子たちのたった一人の叔(伯)母さん役をしています。小3の時、祖母のお葬式があり、板戸やふすまを取り外し、柱が何本も並んだ大広間で大勢の人がお膳を並べてずらりと座っていたあの巨大空間も今見てみると拍子抜けがするほどの普通のお座敷に見えます。体が1.5〜2倍になっているのだから無理のない話なのですが、子供のころの印象はまだ目に鮮やかに残っています。

戦争前、田圃を小作に出していた母の実家も戦争後は耕地整理でたくさんの農地を手放し自作農になりました。俄か百姓になった母の姉夫婦、その長男だった従兄の苦労は大変だったと聞かされています。幼馴染の友人が「お別れのことば」を読まれましたが、そのなかにも「農業一筋」という言葉がありました。従兄には弟が二人いて、一番下の弟は14歳も離れていました。幼い弟を残して母親(母の姉)が亡くなってからが大変でした。幼児の母親、一家の主婦が居なくては農家は成り立ちません。女の子がいる寡婦を迎えることになりました。色々あって、従兄は母となった人の連れ子と結婚することになりました。それが不幸の始まり、「家」がまだまだ大事な頃でした。新婚旅行の帰り、二人で我が家に立ち寄った時の事を思い出します。二人には恋愛の自由も結婚の自由もなく、親と親戚の意見に従わざるを得なかったのかと、高校生の私は気の毒に思っていました。

その後も本当に色々あって、誰か小説に書いてというような出来事の連続。そして、10数年前、義母とその娘である妻と離縁しました。従兄が自分の人生を好きなように生きたのはそれからだったようです。母はお別れの時、棺の中の従兄の顔をなでながら「かわいそうやったね、かわいそうやったね」と何度も言っておりました。それを聞いて私も伝え聞いた今迄の事を思い出して堪らなくなりました。知る人ぞ知る従兄の人生です。晩年は隣に住む長男の孫の世話をしつつ愛石会のメンバーになり、同年の仲間と海外旅行も楽しんでいました。隣り街にある夫の実家に帰った時は、大坂に戻る途中、必ず母の実家の従兄を訪ねるのですが、趣味の話を楽しそうに聞かせてくれました。そして、車だから持って帰れとスイカやカボチャやジャガイモなどをドッサリ持たせてくれました。私には子供の頃から変わらぬ優しい従兄でした。

先週両親が入院中の従兄をお見舞いに行った時は、一週間前まで元気に歩いていて転院先も決まっていたのに容体が急変して、ということでしたが、そのまま帰らぬ人となってしまいました。お別れを済ませて、大坂へ向かう車の中で母が「おくりびと」のお陰で葬儀社の方たちも胸を張って仕事が出来るでしょうと言います。そういえば、アナウンスの女性や式次第を進めていた男性の仕事ぶりなどが印象に残っています。田舎といっても、今や長老や物知りのお年寄りも家に居ないまま世代交代してしまっていて、お葬式のやり方も、お寺さんとのやり取りや、仕来りも、葬儀社の方のご指導がなくては進まないことになっています。田舎そのものが消失しているとも云えますが、幼少時に培われたいとこ同士の絆はまだシッカリ残っていました。それでも私より年長の従兄は一人になってしまい心細い限りです。

加賀インターへ入る手前、8号線の拡張工事現場で以前から気になっていたカエルさん。思わず「車、止めて〜」と言ってしまいましたが、まさか後続車のある一車線で止まれるわけもなく、やっと最後の一匹を撮らえました。ここの現場はポールをカエルの他にサルとか動物をかたどったものが支えていて、ここ以外では見たことがありません。