桜散る

9日、小説家で劇作家の井上ひさしさんが肺がんのため75才で亡くなられました。
  私が知っているのは、「国語元年」と、「頭痛肩こり樋口一葉」と「父と暮らせば」。
それぞれテレビ、舞台中継、映画となったもの。そして「9条の会」の発起人であること。奥さんのユリさんが、エリツィン来日時のロシア語同時通訳をした作家でエッセイストの故米原真理さんの妹さんであること。
死去のニュースで新たに知ったことは、「5才で父を亡くし、お金に苦労した。カトリック児童養護施設に預けられ、長く吃音に悩んだ。」「養護施設で出会った外国人神父の無私の精神に感化され、受洗した。民衆の幸福を希求した宮沢賢治への思いはとりわけ深かった。戦争責任の問題を見すえ続けた井上さんは晩年、争いの無い社会への希望を戯曲「ムサシ」や「組曲虐殺」で強く訴えた。」
そして、座右の銘が「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく おもしろいことをまじめに まじめなことをゆかいに そしてゆかいなことはあくまでゆかいに(日経12日記事より)
「昨年3月初演の「ムサシ」は、約25年前にニューヨーク・ブロードウェーでの上演を目指して企画された作品で、今年5月にロンドンで、7月にはニューヨークで上演が予定されている。」(読売12日記事より)
10才年長の井上ひさしさんの活躍は心強く、あの戦争を知る世代の先輩として大きな安心と励みでもあったので、残念です。
梅原猛さんが追悼の取材をうけておられました。梅原氏の姿を見ることが久しぶりでしたので、ああ、お元気なのだと、こちらは安心。
「一貫して庶民の側、差別される側に立ち、虐げられた者への愛情があった」と話しておられましたが、憔悴された様子でした。
70年代の一時期、梅原氏の「隠された十字架 法隆寺論」と「水底の歌 柿本人麻呂論」の2冊に夢中になったことがありました。その後、市川猿之助の「ヤマトタケル」の脚本を書かれたというので、初めてスーパー歌舞伎なるものを見に行ったこともありました。
梅原氏もまた「9条の会」の発起人であることを、今回、初めて知りました。

昨日は、同じく9日に亡くなられた75歳の知り合いのお葬式に。 聖苑のもみじの新芽

今から28年前の暮れからお正月を市立病院で越年した者が6,7人いました。
当時はガン告知を本人にすることはなく、私は10年間、胃潰瘍と思っていましたが、私以外の方たちは重病の方たちばかりでした。退院してからも、精神的に社会復帰しきれない不安な状態の頃、時々会って、皆で励ましあう会を何回か続けていました。
その中の一番若かった方から電話があって、今年2月頃、私のことを思い出して「どうしてるかな〜」と言ってたんだけどと、お通夜とお葬式の案内の電話をもらいました。電話のお礼を言って「で、幾つになったの?」「57」「え〜、もう、そんな!」 数えてみればもう28年も経っていました。
お通夜の後、彼は又丁寧に報告の電話をくれました。 風船かと思ったらガラス球
立派な祭壇に、山並みのような花に囲まれた遺影がありました。お葬式、私も一人で参列して良かったと思いました。
いつも明るく大きな声で大病を笑い飛ばしておられましたが、ある時、息子さんからの進路相談の電話に深刻に応じておられたこともありました。退院後の通院で病院で出会うと、軽トラックで家の前まで送ってもらい、ちょうど、独立された頃と病気が重なったと聞いていました。弔辞を聞くと、やはり、その頃、起業され、仕事では怖い人だったが、仕事を離れれば、いつも陽気で明るく、思い出すのは楽しかった事ばかりだとか。平成2年に会社組織にされ代表取締役社長として頑張っておられたようです。息子さんのご挨拶で解ったのですが、胃の3度にわたる手術の時にC型肝炎になり、それがガン化、今年に入り、肝臓ガンの摘出手術を受け、その後、元気にリハビリにも励んでいたところ急変してということでした。
関西学院大学時代から謡曲クラブに入っておられ、その当時からの謡曲仲間8人が別れの謡(うたい)を謡われました。
共に胃がんという病気で、執刀医が同じ、暮れから大晦日、83年のお正月の数日を市立病院で過ごしたという、人生の節目の接点があるだけでしたが、その時、私が受けたSさんの印象は、お葬式で語られたSさんの生前の人となりと充分重なりました。
桜散る頃、同じ日、同い年で亡くなられたお二人のご冥福をお祈りします。