「ブッダ」

昨日は急に午後から「映画に行くぞ!」ということで、「ブッダ」に行きました。
私はママチャリ、夫は新車のマウンテンバイクではじめて出かけました。
夫の山仲間に「八日目の蝉」を勧められたというのですが、午前中の上映でダメ。
で、「阪急電車」か手塚治虫の「ブッダ」で、「阪急電車」より「ブッダ」になりました。
原作の漫画は読んでいませんが、漫画を読む代わりにという気持ちも。
見終わって、夫は「たいしたことないな」でしたが、私は途中から、今回の原発事故のことが重なり、意義がありました。
実写で描くには幻想的なシーンや戦闘シーンなどが難しいので、アニメにしたというのは無理ないことと思いました。
後に釈迦となる王子シッダールタが何もかも捨てて修行に出発するまでが描かれますが、奴隷の身分からのし上がろうとするチャプラの話が半分以上でその辺が間延びする原因かな〜とも思います。吉永小百合さんはナレーションだけで良かったかな。チャプラの母の声は・・・声優にしてはイメージが残りすぎて、チョッと・・・でした。
過酷な身分制度と戦争、貧困と病、死、と繊細で感受性豊かな王子が悩みを深め、思考を深めていく当時の凄まじい社会の様子を見ながら、私は思いました。奴隷の身分があり、人が人として認められていなかった昔、戦争であっけなく死んでいく人々。だけど、基本的には今も余り変らないのではないかしら。利権に群がり原発を推進した「原発村」に群がる人たちは皆社会の上のほうの人たちです。所得も並みではない人たちでしょう。そして、今、事故を起こして、被害を受け避難生活をしている人たちや、事故対策で被曝覚悟で毎日格闘している東電福島事故現場で働く人たちは、並みの暮らしをしている一般人であり、その日暮らしの日雇いかもしれません。過酷さは雲泥の差かもしれませんが、基本的な社会の有りようは今も変らず。戦争によって人は死に、戦争の無い国でも、こんな事故によって、国土は汚され、海も空も汚染され、並みの人間は放射性物質を浴びています。
生老病死」は思いのままにはならずという生きている人間の苦悩からいかにして救われるかシッダールタは「目覚め」(シャカになる)を求めて踏み出します、全てを捨てて。同じように身に着けているものを全てぬぎ捨てて裸になって新しい聖者の道を歩み始めたというアッシジの聖フランチェスコを思い出しました。シャカになるまでの次回作は予定されているのか分りませんが、見てみたいと思います。こういう物語を壮大な長編漫画にした手塚治虫さん、凄いな〜と改めて。
Wikipediaでフランチェスコを調べてみましたら「フランシスコの祈り」という詩?をみつけました。
映画の帰り道、すでに田植えの済んだ田圃の写真を横にコピーします。

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
      『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

聖フランチェスコといえば「小鳥への説法」で知られている聖人で、一休さんと重なります。
ブッダ」ではシッダールタが「思いのままにしたいと思うから悩む。全てを受け入れることができるようになれば…」と言うのですが、諦念のことなのか、そうではなくて別の境地のことなのか・・・