「長谷川豊さんに伝えたいこと『卑怯者を探す 愚かさ』」

◎先日どこかの番組で解説されていた方が、最近は「自明のことが自明でなくなった」と。本当にそう思います。人のものを盗んではいけない、ウソをついてはいけない、人を殺してはいけない、とか、戦争はいけないとか、親や年長者を敬いましょうとか、弱いものイジメはいけないとか、お互い説明しなくても当然と思われてきたことが、そうではなくなっていることに、悲しいとか、虚しいとかを通り越した、何といえばいいのか・・・生きていく気力が削がれるほどの思いを感じてしまうことがあります。
ノーベル賞受賞者の益川さんが、ゼミの学生を前に、軍事産業にかかわることについて質問。学生は、「防衛のためなら問題ないんじゃないですか」と答えます。益川さんは、「そうやっていくとズルズルと歯止めが効かず戦争に加担していくことになる」と仰っていましたが、学生たちには通じていません。学生たちには「戦争」が分かっていません。益川さんは、あの戦争で日本だけでも300万人が犠牲になり、戦争だけはしてはならないと、科学者として日本復興の力になりたいと頑張ってこられた方ですが、その思いを学生たちは理解できていません。自明のことを説明しなければならない時代になったと思います。
長谷川豊氏のブログの「透析患者は自業自得」の内容もヒドイものですが、この内容がなぜヒドイのかわからない人達がいます。自明のことが自明ではなく、説明しなければならない。自明だと思っている者には、何が通じないか分っていないので、どう伝えていいのかがわからない。「東久留米日記」(http://d.hatena.ne.jp/higasi-kurumeda/20160927/1474935272)さんに、伝え方の好例を見つけました。脱サラ、東京から高知に移住したイケダハヤトさんの記事を全文引用です。(記事中、茶色字 by 蛙)

「弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と語る長谷川豊さんに伝えたいこと。



卑怯者を探す 愚かさ


ひとこと書いておきましょうか。


卑怯者はいるよ、そりゃ。


「自業自得の透析患者は殺せ!」という過激な「逆張り」で大炎上した長谷川豊さん。キャスターを務めていたテレビ番組を降板させられたとのこと。まぁ、そりゃそうですね。


経緯を説明したブログに、このような言葉がありました。

私は日本の最大の闇は「社会保障給付費」だと思っています。無駄は山ほどあるけれど、これほどのムダだらけの世界はないと。ここにメスを入れなければ、日本は早晩厳しい展開になると信じています。

が、そこにメスを入れるということは、一見すると「弱者切り捨て」と言われかねない状況になります。

でも、そこに「本当に弱者なのか?」「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と訴えたかった。人様から預かっている税金。もっともっとしっかりしなければ、私はおかしいと信じています。


テレビ大阪ニュースリアル』降板を受けて : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/48552418.html


いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。


ぼくらは、それを前提に社会を作っていかなくてはいけないのですよ。制度を作る以上、一定の不正は、「必ず」あります


「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」というのは、まさに愚問です。そりゃあ、いますよ。社会というのは、そういうものです。特別なことではない。


恐ろしいのは、そういう一方的な「処罰感情」が、ほんとうにサポートを必要としている人を萎縮させ、孤立させてしまうことです。


「人様から預かっている税金。もっともっとしっかりしなければ、私はおかしいと信じています」という言説も、萎縮を誘うものですね。


こうした論調が強くなると、生活保護制度と同じで、「社会保障を利用することは恥」みたいな本末転倒な話になっていきます。その結果、貧困は苛烈になり、社会は劣化していくわけです。


ぼくら影響力を持つ人間が語るべきは、むしろ「困ったときは積極的に制度を利用しよう」というメッセージです。困窮している人を萎縮させるような社会は、まさに、救いようがありません


弱者かどうか、卑怯者かどうかを、誰がどう決める?

そこに「本当に弱者なのか?」「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」と訴えたかった。



そもそも、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は、どのようにして判断するんでしょうね?


長谷川豊さんは「自業自得の透析患者は実費負担にして、払えないならそのまま殺せ」と語っていますが、誰がどのような基準で、それは「自業自得だ、だからお前は死ね」という判断を下すのでしょう


国家?コミュニティ?裁判?


……違いますよね。


そんなものは、判断できないんです。


他者が判断を下すのが難しいのはもちろん、当の自分ですらも、判断に誤る可能性が高い話です。


ほら、うつ病の若者なんかにも、「自業自得じゃないのに自業自得だと思いこんでる人」って、けっこういますよね。「ブラック企業に勤めてしまい、身体を壊したのは、私が悪いんです……」とか。いやいやいや……。


人工透析のように医療が絡んでくるものに関していうと、さらに話は複雑です。


たとえば医者から「あなたが病気になったのは日頃の食生活が原因です」と断言されたとしても、よくよく調べると、まったく違うところが原因になっていた……ということは大いにありえますよね。


そもそも「糖尿病」ひとつとっても、遺伝的・民族的に罹患しやすさが変わるわけです。

欧米人に比べ、日本人の摂取カロリーは少な目で肥満者も目立たないのに、 2型糖尿病が多いのは、日本人が民族的に2型糖尿病になりやすい体質(遺伝的素因)を 持っているためと考えられます。


遺伝的体質と糖尿病‐糖尿病教室|京都大学 糖尿病・内分泌・栄養内科(http://metab-kyoto-u.jp/to_patient/online/a006.html)


マクロに見ると「日本人は糖尿病になりやすい」のですが、それも「自業自得」なんでしょうかね?


日本人に生まれたことが自業自得?「あいつが透析を受けているのは、自業自得じゃないのか?」というのは愚問ですよ、ほんと。


倫理観を育てる。


結局のところ、ぼくらができるのは「制度を悪用することはダメだ、という倫理観を育てていくこと」に尽きると思っています。


たとえば、今の日本社会において、「90%」の人は「制度を悪用して不正に利益を得るのは、悪いことだからやってはいけない」と考え、倫理的に生きているとします。

ぼくら大人がやるべきは、この割合を高めていくことです。90%が95%になるだけで、犯罪も不正も減り、監視・処罰するためのコストも減少します。



では、人々の倫理観を高めていくために、何をすべきか?


それは、他者に対する疑念を捨て、他者を信頼することです


「本当は弱者のふりをした卑怯者は混じっていないのか?」という愚問を捨てて、「多くの人は正しく行動している、だから疑うのはよくない」と割り切ることです。

「大半の人は正しく行動している」ということを信じることで、自然と、自分自身も正しい行動を取るようになります。社会保障のコストだって下がるんじゃないでしょうかね


「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなりますよね。人間の倫理観というのは、ある意味で、その程度のものです。


だから、ぼくらはまず、信じなければいけません。
一定数、不正をする人がいるのは、当たり前。
でも、ほとんどの人は、それを正しく、望ましく利用しているのです。


まとめ。


要点をまとめましょう。


不正に手を染める人は「必ず」存在する。そうした社会の摂理について「けしからん!」と苛立っても仕方がない。そもそも、「ほんとうに不正なのか」を判断するのは難しい。自分ですら間違える可能性があるものであるがゆえ、他者が容易に判断を下せるものではない。ぼくら市民ができるのは、他者を信頼することによって、徳を高めていくこと。倫理的に行動できる人を増やしていけば、社会のコストは自然と減っていく。


誰の中にも悪人は存在します。ぼくも悪いことをたくさんしてきましたし、これから手を染める可能性もあります。妻がいなくなったらヤバイですね……。



「卑怯者を探す」ことはやめましょう。

「裏切られた」と騒ぎ立てることはやめましょう。

だって、あなたも大なり小なり、卑怯なことをして、他人を裏切ってきたでしょう?

それよりも、信頼の力で、人々に正しい行動を呼びかけましょうよ。結局のところ、それが一番早いんですよ。


☆引用元ブログ「まだ東京で消耗してるの?」 (http://www.ikedahayato.com/20160930/66145009.html)
◎「自明のこと」「当たり前と思っていたこと」をもう一度問い直してみる必要があるということですね。話し合えるのか…と思うような相手と話し合うには、自分にとっての当たり前を、なぜ、どうして、と考え直して言葉にしてみる努力が必要だということですね。話さなくても、と甘えている時代ではなくなったのですから、「話せば分かる」能力を身につけなければならなくなってしまいました。停滞してはいけないのかも・・・