「母校を訪ねて」


5月の同窓会でのことでした。校長先生から、体育祭の準備期間中の5月下旬から6月第2週まで食堂が暇になるので母校を訪ねて食堂を利用してくださいというチラシが配られました。そこで、同じテーブルに座った箕面在住が5人程いたので呼び掛けたところ、3人で行くことになりました。1日の木曜日、箕面駅11時集合で、岡町にある母校を訪ねてきました。
一人(T)は中学校が一緒でしたが、もうお一人(K)は豊中の服部(はっとり)に住んでいて、結婚してから箕面の東部、粟生間谷(あおまだに)に住んでいる方。

当時、通勤・通学の満員電車で岡町で降りられなかったとTさんが思い出話。私だけかと思っていましたので驚きました。Tさんが「鞄をもった手が持っていかれて困ったし、岡町を過ぎて幾つ目の駅で降りられたのかな〜、あれには困ったわ〜」と言われ、私も同じと。Kさんは、「へぇ〜そんなことがあったの!私は服部だから逆方向…」。
さて「急行が止まらない駅なので下りたことがない」と三人で言いながら降りた岡町駅は、立派な高架になっていて、ホームは3階部分。原田神社の緑の木々が見えます。エスカレーターで下って、少し行くと昔と変わらぬアーケード街。そこを歩いて抜けると、小1の1学期まで住んでいたので、見覚えのある市場の入り口や、象の鼻の滑り台があった公園の緑も見えてきます。角にあったライオン写真館もそのまま、お寺の幼稚園に通っていましたが、そのお寺の入り口が見えました。当時。外に遊びに行く時、”産業道路を越えたらダメよ”と言われていた道路の向こうに豊中市役所が見えてきました。

市役所の正面の広場を通り抜けながら、森友学園問題の不正の発覚は豊中の市会議員から始まったのよね、なんて話を。その向こうに見える校舎が我母校のよう。通用門のところで「正門はどちら?」と女学生さんたちに聞いて、正門へ回り、スリッパに履き替えて、玄関で受付を済ませ、”来賓者”の札を下げて、食堂へ。建物や周辺の面影は全くなく、入り口の位置も変わっていました。正門前と中庭が恩露園、恵風苑という立派な日本庭園でした。中庭が残っているようですが、木は伸びて手入れは行き届いていない様子。
食堂で予約していたカレーを食べていると、若い校長先生ともうお一人が食事に来られました。近くに座られたので、みんなで一緒に少しお話をしました。Kさん持参の運動会の応援風景などの写真を珍しそうにご覧になっていました。先生に創立当初の塀が残っている部分を聞いて、帰りに寄ることに。

あの評判の良かったジャンパースカートと短い上着の制服は生徒の要望で廃止になって、短いスカートとジャケットの普通の制服になってるよという話も。Kさんも、母親が憧れていてお姉さんがまず入り、妹の私もと。我が家とよく似たケースです。あの頃は、やはりどこの母親も娘に夢を託した時代だったんですね。母親たちの青春時代は、女学校まで行けるのも恵まれたケース、戦争に次ぐ戦争だったと聞いていますので無理ないですね。
校庭のところで男子生徒さんに塀の場所を尋ねたら指さして教えてくれました。Kさんが、「話したらやっぱりまだまだ若い子供やね、私らはおばあちゃんに見えるやろね〜」と。Tさんは子供なし、私は孫ナシ、なんだけど、見た目おばあさんでしょうね。すれ違う時には、どの生徒さんも気持ちよく挨拶してくれますので先生から、この時期卒業生が訪ねてくるということが伝わっているのかなと思いました。

大きな石灯籠(昔の庭園の名残?)のある正門を出て、塀沿いをしばらく歩いて北側へ回ると、レンガ造りの柱にコンクリートのパネルとそのパネルに桜の花びらを抜いたものを交互に並べた低い塀が見えてきました。

レンガの支柱の塀沿いに歩いていくと、立派な立て看板があり、読んでみると「有形文化財」になっています。体育の時間に、この塀をめぐらした外周をマラソンで走らされたことがありました。二人は、「そうだった〜?」「あれっ、違ったかな〜?」(お互い半世紀以上も前のことです)。
数年前、高校3年間を自分の思い出の中から消してしまっても悔いはないと、宝塚の絵画展で、作品を展示している同窓生のYさんと、だから同窓会は今度で最後にするなんて話をしたこともありました。
『思い出の断捨離』なんて思っていたのに、今は、卒業以来会ったこともなかったTさんやクラスも一緒になったことのないKさんと一緒に学校を訪ねて55年前と変わらぬ懐かしい塀の前に立っているなんて、本当に分からないものです。帰りは、歩き疲れたのでアーケード街の喫茶店へ入ってお喋り。今度は、今日来ていない同期の2人にも声をかけて、Tさんおすすめの近くのレストランで、ランチしましょうということに。