不思議ブログの「日本人の社会」

ヨガへ行く途中のお宅で、垣根越しのムラサキシキブの実がお日様に輝いていました。
昨日のブログのコメント欄に不思議なコメントが。
記事の内容についてのコメントなのか、私のブログそのものに対するコメントなのか、それとも・・・?と困りました。
それで、ブログ(http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/)をお訪ねしてザァ〜〜と読んでみました。イザヤ・ベンダサンやカレル・ヴァン・ウォルフレン、司馬遼太郎などが引用されています。私も読んだことのある人たちです。日本、日本人論について述べておられるようです。コメントにも書いてありますが、日本語には時制がない、とか状況によって、私がワタクシにもワシにもなる。だから、社会の序列が大事になる。そもそも日本語は議論に耐えられる言葉ではないとか。これは共感できる内容です。
学生時代の友人と会って、つい最近もこんな話になりました。会議や組織で、自分の意見を人に解ってほしくて書いたり話したりする時は、自然に「翻訳語」になっている。英語は話せなくなっていますが、理屈を通すためには英語の考え方で日本語を書いたり話したりしている自覚があります。恐らくこの方が書いておられる日本人論と日本語の関係は当っているし、その結果が福島第一原発事故なんだろうと思います。外交下手も、どの組織にあっても議論がなされないことなど、ひいては脱原発が決められないことそのものも、日本人だから、日本だから…と言えなくもない。
でも、そういう日本ではダメだ、変えなければと「私はこう思う、こう考える、こうしたい」と「未来」を考える日本人が、原発事故をきっかけに新たに生まれ始めている。その人たちが自分の考えを行動に移して官邸前の金曜デモはいまも続いているし、全国に広がってもいる。
先日、札幌(だったと思う)の脱原発集会に参加している高齢者(私と同年配か少し上)の方がインタビューされてこう答えるのを見ました。「昔、高校生の頃、生意気に親に向かって、どうして戦争に反対しなかったんだと問い詰めたことがあった。今、私が何もしないでいたら、同じことを、今度は孫に言われると思うので・・・」。
私も同じ気持ちです。私もどうして反対しなかったんだろう、反対しなかった人たちも責任があるだろうと思いました。友人に、それは厳しすぎる、責めるのは可哀そう、戦争反対と言えない様にされていたんだから・・・と言われたものです。
天皇制のもと治安維持法があり特高がいたあの時代とは今は違います。政府の政策や自治体の方針に反対と言っても命がけという時代ではありませんし、個人で情報を集めたり、発信できる道具も手に入れています。ならば相応の責任を果たすために、情報を得て自分なりの判断をして意思表示をすることが、すなわち新しい日本への変化を作り出す第一歩かもしれません。
「民主主義で出来ることは、最終的には選挙です」というのは、昨日のブログの元国連職員の松村昭雄さんの言葉ですが、選挙では脱原発を争点にしなければならないでしょう。私たちは、脱原発の政治家と政党を選ぶのか? それとも今まで通り、選挙は別? 結果が心配ですが、脱原発を掲げる政党や政治家を選ぶ人が増えるよう働きかけていくしかありません。

今は、日本とは…と分析していたり、日本はやっぱり駄目ね〜とか、日本人は変わらないよね〜とか嘆いている場合ではない・・・これが私のコメントへのお返事かな。
もう一つのブログ(http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/)をクリックしたら次のような文章が。
この方の言いたいことが簡潔に表現されていてとても分かりやすいのでコピーしてみます。
最後の一行はとても皮肉が効いています。こうならないために頑張りましょう!

日本人の社会





意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).


英米人は、意思を比較して個人を選出して責任者とする。


意思は、表明できる。議論の対象になる。


議決により意思決定は可能になる。



意思は、未来時制の内容である。が、日本語には、時制がない。で、日本人には、意思がない。


意思がなくては、社会の意思決定にも難渋する。国政も先送りとなる。


日本人には、意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。


日本人は、序列を定めて裁量権を与え、恣意により運用させる。



恣意は、表明できない。が、腹の底にたまっている。



論旨がないから、議論は不毛である。談合により腹の探り合いをして、恣意を摺合せる。


隠ぺい体質者は談合により急場を打開する。日本人の頭の中には急場と場当たりの内容しかない。



意思を示せば、当事者となる。


意思を示さなければ、傍観者となる。


我が国は、世界にあって、世界に属さず。



自己の意思を表明すれば責任を感じざるをえない。


意思というものの存在を認めなければ、責任の所在の追求もない。


国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。


とかく、この世は無責任。



それでも日本人は原発再稼働を選んだ。


一億総懺悔への道、この道はいつか来た道。


安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しますから、、、、


◎「日本人には、意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。日本人は、序列を定めて裁量権を与え、恣意により運用させる 恣意は、表明できない。が、腹の底にたまっている。論旨がないから、議論は不毛である。談合により腹の探り合いをして、恣意を摺合せる。 隠ぺい体質者は談合により急場を打開する。日本人の頭の中には急場と場当たりの内容しかない。」
厳しいですが、その通りですね。

◎この文章が何時書かれたものかがよくわからないので、「日本人は原発再稼働を選んだ」というのは、政府が「30年代原発ゼロ」政策を取っている(閣議決定はできていないものの)今のことを敢えて言っておられるのか、あるいはそれ以前の大飯原発のことを言っておられるのか判りません。ここが、1日も早く「日本人は脱原発を選んだ」となるようにしたいものですが・・・