「竹内浩三という”戦没の詩人”がいる。」稲泉連


◎昨日、雨の日曜日の午後、手帳に挟んだままの新聞の切り抜きを取り出しました。日付は8月24日。「プロムナード」というコラムで、タイトルは「浩三さんのこと ー 稲泉連」。
竹内浩三という”戦没の詩人”がいる」という出だして始まり、すぐ23歳で戦死した竹内浩三という詩人の詩が三行紹介されます。


戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや


稲泉氏は米国の同時多発テロが起きた年、全集『日本が見えない』が出版され、書店で手に取り、読みだした詩がこの三行で始まる詩、「骨のうたう」で、その後、これがきっかけで、評伝『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』を著すことに。このコラムは、竹内浩三が残した手帳と久しぶりに再会したことを書いておられます。そこのくだりを書き移してみます:

 出征が決まった後、日大の映画科に通う竹内浩三は、本の余白に「飯盒〈はんごう〉の底にでも爪で詩を書きつける」という意味の決意を記している。事実、入営後も筑波の舞台での生活を2冊の日記に書き、姉の故・松島こうさんに送った。宮沢賢治の詩集をくり抜き、そこに手帳をはめ込んでまで。
 両親を早くに無くし、親代わりだった彼女に対し、彼は<コノ 貧シイ記録ヲ / ワガ ヤサシキ姉ニ / オクル>と書いた。
 普段は本居宣長記念館に保存されているその深い緑色の小さな手帳を、15年前の私は恐る恐るめくったものだった。戦前の紙であるため、少しでも強く触れば解けて崩れてしまいそうだったからだ。 (中略)

 昨年、展示会で数年ぶりに「筑波日記」と名付けられた彼の手帳に再会した。竹内浩三の詩を愛する人たちは、親しみを込めて彼を「浩三さん」とよぶ。
 「浩三さんの日記に、また会うことができた」
 そのとき私は自然とそう思い、手帳を覆うガラスケースにそっと手を触れずにはいられなかった。

◎この紹介された三行の詩を初めて読んだ時のドキッという思いがいつまでも心に残ります。
調べてみると、母と同じ大正10年生まれ、生きておられれば今年95歳。このコラムの稲泉連氏の評伝と竹内浩三の詩を取り上げたブログが見つかりましたので、そっくりコピーして紹介してみます。どの詩も今まで読んだことのない詩です。(引用元:http://d.hatena.ne.jp/krabat_j/20110515/1305469758

稲泉連『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死』


「日本が見えない」


この空気
この音
オレは日本に帰ってきた
帰ってきた
オレの日本に帰ってきた
でも
オレには日本が見えない


空気がサクレツしていた
軍靴がテントウしていた
その時
オレの目の前で大地がわれた
まっ黒なオレの眼奬が空間に
とびちった
オレは光素(エーテル)を失って
テントウした


日本よ
オレの国よ
オレにはお前がみえない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない



23歳で戦死した竹内浩三の詩「日本が見えない」に22歳で出会った著者が、時代は違えど同じ年頃の若者として、浩三の詩と死(生)を丹念に辿ったノンフィクションである。
第一章では、浩三の姉である松島こうさんの眼差しを通して、浩三がどのような環境で生まれ育ち、東京でどんな学生生活を送ったのか、そして徴兵、出征という流れの中でどんな思いを胸に抱き、どのような詩を書いたのかが明らかにされる。第二章は、無名の若者に過ぎなかった浩三が、その死後、厭戦的な詩を残した詩人として世間に受容されていく過程が取り上げられている。そこには実にさまざまな人々がかかわっていて、それぞれが浩三の詩に特別な感情を抱き、彼の死を無駄にしたくない、彼の詩を残したいという彼らの思いが浩三の作品を世に広める鍵となったようだ。第三章では、浩三最期の地となったフィリピン北部ルソン島のバギオを著者が訪ね、実際に浩三が転戦したと考えられる土地を回る。


竹内浩三の詩は「反戦詩」ととらえられることが多い。けれども著者はそうした既成の色眼鏡をかけず、あくまで戦争を知らない現代の若者として彼の作品を読もうとしている。その姿に好感を持った。
たとえば、有名な詩の1つに「骨のうたう」があるが、実はこれは浩三の知人によって補作されたものだという。




「骨のうたう」


戦死やあはれ
兵隊の死ぬるや あはれ
遠い他国で ひょんと死ねるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ねるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあはれ
兵隊の死ぬるや あはれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や



補作される前の詩は次のとおり。



戦死やあはれ
兵隊の死ぬるやあはれ
とほい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


苔いぢらしや あはれや兵隊の死ぬるや
こらへきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらひ
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
それはなかった
がらがらどんどん事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨は チンチン音を立てて粉になった


ああ 戦死やあはれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
なんにもないところで
骨は なんにもなしになった



補作前のものと比べ、印象が随分変わってくる。著者の言葉を借りると、「前者が『国のため大君のため』に死んでしまう悲しみを強調しながらフェードアウトしていくのに対し、後者は戦死者の『骨』が『なんにもなしになる』ことがより鮮明に描き出されている」。


こうした丁寧な読みによって、詩の向こうにいる竹内浩三の姿が輪郭を得て立ち現れてくるような気がした。


最後に、本作の書名にもなった「ぼくもいくさに征くのだけれど」をご紹介。



「ぼくもいくさに征くのだけれど」


街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし かったはなし
三ヶ月もたてばぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている


ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう てがらたてるかな


だれもかれもおとこならみんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど


なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら


そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた

NHK視点・論点(2014年08月14日)「シリーズ戦争と若者・竹内浩三の詩」http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/195201.html