日本経済新聞の「経済教室」では8日から11日まで、4日連続で「政治を立て直すー短命政権の先に」と題して四人の方たちがかなり長文(6段)の考察を発表されました。記事の「見出し」と「ポイント」から羅列してみます。
1.田中直樹(経済評論家・45年生)「永田町も『失われた20年』」「野党の政策を鍛えよー安保・経済の両方に問題」
ポイント◎「鍛錬」欠いた民主、政権の重さ耐え切れず
◎安保政策、論じきれずに普天間問題で「罪」
◎戦後日本に野党の政策を鍛える土壌なし
2.堺屋太一(経済評論家・35年生)「国民との距離を縮めよ」「官僚支配の脱却必要ー財政を再建し、孤立も回避」
ポイント◎時代の変化に遅れ、倫理観と美意識にズレ
◎国民と遊離し官僚に頼る「鉢植え内閣」続く
◎規制強化、借金増、対外孤立、戦前と酷似
3.山内昌之(東京大学教授・47年生)「政策の取捨選拓欠かせず」「現実の問題直視せよー官僚排除の手法は失敗」
ポイント◎政府・党の二重権力が挫折を生む構造に
◎歴史的思考に基づく「常識」の発揮が重要
◎「革命」でない政権交代、現実を無視できず
4.山崎正和(劇作家・34年生)「「見かけの変革」脱却をー連続性保つ仕組み重要に」
ポイント◎リーダーなきポピュリズムが政治を支配しょう
◎孤独な群衆、流行や雰囲気に流されやすく
◎抽象的理念と具体的政策の組み合わせ重要
こうやって、羅列してくると大体何のこと、誰のことを言っているのか察しがついてきて、誰と誰は同じ意見とかが分かってきて面白いです。この中で私が一番面白くて納得できたのは堺屋太一氏でした。
今回の鳩山首相辞任、菅内閣誕生の政変?については私は内田樹氏の考え方に一部同調しています。(参考:「内田樹の研究室」より最近のエントリーの「首相辞任について」「もうひとことだけ」「北方領土について考える」「キャラ化する世界」など)
内田氏の考えは、構造的なものを見ないで個人の属性に起因するとしてしまうのはおかしい、と私は理解しているのですが、そういう視点でこれまでとこれからの問題点を指摘されたのが堺屋太一氏でした。紹介してみます。
「平成になって16人の総理大臣、特に最近4代の首相の在任期間は約1年、「一発芸人」よりはかない寿命」で、短期政権が続くのは、体制疲労の表れとして、まず幕末があげられ、続いてあげらるのは昭和10年代前半。二・二六事件(1936年)以降。第1次近衛内閣を唯一の例外として1年未満の短期政権が続出。その原因は政治資金の規制強化などで内閣が議会から遊離したこと。
「34年の帝人事件なるデッチ上げ疑獄を契機に政治資金が厳しく規制され、国民に浸透した資金網や運動組織を持つ政治家はうさんくさく見られるようになった。このため、議会内の実力者は政権から遠ざけられ、国民の間にも議会にも根を持たない官僚や軍人を首班とるす「鉢植え内閣」が続く。」この状況は小泉内閣の後の政界と似ていると堺屋氏は言う。「平成初期の一連の政治資金の規制が強化されると、資金調達力があり集票組織を養う政治家は悪徳視される一方、政党や政治家は政党助成金などの国費で養われるようになった。政権の鉢植え化がはじまったのである。」
では、こうした表紙だけの短命軽量内閣の下で何が起きているのか。昭和10年代、開戦前夜の短命内閣時代との共通点がある。
一つは、官僚による統制規制の強化。
36年の広田弘毅内閣にはじまる5年半の短命内閣時代には、戦時体制への統制強化が急激に進められた。重要産業統制法の改正にはじまり、第1次近衛内閣では臨時資金調達法や国家総動員法が、平沼騏一郎内閣や安部信行内閣でも米穀配給統制法や国民徴用令が出され、小作料も統制された。社会の根幹に関する重要問題が、いとも軽々と官僚の統制化におかれた。
類似のことは、平成の短命政権でも行われた。安倍から麻生に至る3内閣は、表面では「小泉改革の継承」を唱えていたが、やった事は正反対。猛烈な規制強化だ。例えば建築基準法の改正で規制が強化され、建設業界に大打撃。金融商品取引法の施行で金融取引は著しく不便に。金利規制の強化が生んだ不便と衰退も著しい。飲酒運転の規制も強化され、・・・地方都市の飲食店や商店街が壊滅的打撃を受けた。また、派遣労働の制限で、もし製造業での派遣労働が禁止されれば多くの事業所が海外に移転、日本の成長力と国際競争力は低下するだろう。
もう一つ、短命政権が続く場合の共通点は、国の借金が急増することである。
ここで突然電話、遊びに行くことに 万博仕掛け人堺屋氏繋がりで飛入り
(グラフの急カーブが昭和と平成の短期政権で見事に重なる!)
(注)各年度末の政府債務残高を各年(暦年)の名目GDPで除した値
短命政権で国の借金がなぜ増えるのか。その主因は、閣僚たちが各省官僚の資料と説明を丸のみするからだ。(略)
しかし、官僚は政権の味方でも部下でもない。組織人の常として、官僚もまた官僚共同体にのみ忠誠である。資料も論理も、官僚共同体の利益のために構成されている。
現在の官僚には、この国を軍事強国や経済大国にするビジョンがあるわけではない。・・・組織の私欲で動いている。
今、体制疲労を起こしているのは、議会制民主主義ではなくして、官僚主導である。戦前の体制が完全に破滅したのは1945年の敗戦だが、それを必然化したのは昭和16年(1941年)の開戦だ。
対外的な孤立と官僚主導が進む今、経済的破滅の入り口は真近のように思える。
このことを知った上で、自由と楽しさと対外協調を実現する長期的基本方針を確立できる国民政権の出現を期待したい。新内閣がそうであればありがたいのだがーーー。
考えてみると、普天間の問題はアメリカが相手であったのに日本の国内問題にしてしまい、結局は外務官僚や防衛官僚の抵抗にあったともいえます。堺屋氏の記事にもありますが、官僚は選挙で選ばれるわけでもなく国民の意思とは無関係。官僚主導の政治になれば、それは堺屋氏の言う「鉢植え内閣」となり、民意を反映しないやりたい放題の政治になり、それが太平洋戦争前夜の頃とよく似ているというわけです。
ここで、内田氏のブログ「内田樹の研究室」の記事「首相辞任について」のなかで「3つのエスタブリッシュメント=抵抗勢力」について書かれたところを読むと、今の日本が抱えている問題点が良く分かるのではないでしょうか?
私たちの情報や考え方はマスメディアの影響を大きく受けます。そのメディアそのものが既得権益を失いたくないという意思を持っていて、官僚たちのリーク情報を一方的、無批判に意図的に流しているということを私たちは忘れてはいけないと思います。情報操作に乗っかってしまって足元をすくわれ犠牲を払うのはいつも国民です。
(引用が長くなりますが、初めての方は、是非、読んでみて下さい。視点のユニークな論じ方ですが、政治的な立場に関係なく、現在の日本の置かれた位置と抱える問題点を言い当てていると私は思うのですが・・・)
民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。
結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。
エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。
米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。誰も変化を求めていない。鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と国防における日本のフリーハンドの確保:霞ヶ関支配の抑制:政治プロセスを語るときに『これまでマスメディアの人々が操ってきたのとは違う言語』の必要性」を認識しているという点で、共通するものがあった。
言葉を換えて言えば、米軍の統制下から逃れ出て、自主的に防衛構想を起案する「自由」、官僚の既得権に配慮せずに政策を実施する「自由」、マスメディアの定型句とは違う語法で政治を語る「自由」を求めていた。
その要求は21世紀の日本国民が抱いて当然のものだと私は思うが、残念ながら、アメリカも霞ヶ関もマスメディアも、国民がそのような「自由」を享受することを好まなかった。彼ら「抵抗勢力」の共通点は、日本がほんとうの意味での主権国家ではないことを日本人に「知らせない」ことから受益していることである。
鳩山首相はそのような「自由」を日本人に贈ることができると思っていた。しかし、「抵抗勢力」のあまりの強大さに、とりわけアメリカの世界戦略の中に日本が逃げ道のないかたちでビルトインされていることに深い無力感を覚えたのではないかと思う。
政治史が教えるように、アメリカの政略に抵抗する政治家は日本では長期政権を保つことができない。
日中共同声明によってアメリカの「頭越し」に東アジア外交構想を展開した田中角栄に対するアメリカの徹底的な攻撃はまだ私たちの記憶に新しい。
中曽根康弘・小泉純一郎という際立って「親米的」な政治家が例外的な長期政権を保ったことと対比的である。
実際には、中曽根・小泉はいずれも気質的には「反米愛国」的な人物であるが、それだけに「アメリカは侮れない」ということについてはリアリストだった。彼らの「アメリカを出し抜く」ためには「アメリカに取り入る」必要があるというシニスムは(残念ながら)鳩山首相には無縁のものだった。
アメリカに対するイノセントな信頼が逆に鳩山首相に対するアメリカ側の評価を下げたというのは皮肉である。
堺屋太一氏が心配しておられるような昭和の短命内閣後の破滅を私たちは二度と繰り返したくありませんね。
その為に、ここで短命内閣を終わらせて、菅内閣には、政権交代で私たち国民が願ったことの実現に本腰を入れてもらいたい。
そして、3つの既得権益との闘いが前進し、時代が大きな転回を遂げていくのをぜひとも見てみたいものです。そのためには、
私たちも「民意の伝え方」や、そもそもの「民意」について、シッカリと考えなければならないと思います。
メディアの言いなりになって、一人の力のある政治家を悪徳政治家呼ばわりして、排除に成功したと喜んでいては、
本当の「政治」を失ってしまう気がします。私たちこそが政治の主役であって、冷静に強かに、色んなタイプの政治家を使って、
新しい社会の実現に協力し合えるようになりたいものです。
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